帝都に砲声が轟けば、北アフリカにゼロが舞う
1942年 エジプト アレキサンドリア上空
特徴的な三発機が、流麗な空冷エンジン機から放たれた銃火の餌食となり、
地中海の向こう、未だ見たこともないイタリアの地に生まれた人間たちが死んでいった。
「敵イタリア軍のサボイア爆撃機。一機撃墜」
戦果を無線にて報告しながらその流麗な機体、零式艦上戦闘機32型を駆る帝国遣埃義勇部隊所属、船越三郎元日本海軍大尉は考えた。この機体が、もしも陸軍の「隼」だったならどうなっていただろうかと、だがすぐに考えても仕方がないと思い直す。
陸軍では未だに己の体に流れる血は嫌悪の対象でしかないのだから、その機体を操れるわけがない。
その不手際によって明治大帝を危険にさらした男、それが船越の祖父にあたる山縣有朋への帝国陸軍での一般的な評価だった。
祖父の事は良くわからない。それでも周囲は祖父が引き起こした「事件」をもとに自分の事を推し量ろうとする、ならば自分はそれを超える結果を残すしかない。決意を新たに船越は戦果を求めて操縦桿をひねった。
竹橋事件。
1878年8月23日に西南戦争後の恩賞配分に不満を持った近衛兵が決起したこの事件において、決起した近衛砲兵の放った砲弾が赤坂仮御所に着弾した。幸いにして明治天皇は無傷だったものの、このことから単なる反乱事件の枠を超えた騒ぎとなり、結果的に原因となった恩賞の配分を監督していた山縣有朋に非難が集中し陸軍を追われる形となった。
明治期を描いたドラマや小説などでは辞任に際して山縣が、見苦しく権力に執着する様が描かれているが、実際には何も言わず、自らに対する非難を粛々と受け入れながら故郷山口へと帰郷したという。
また、この事件により、近衛部隊でさえも信用がおけなくなったことから、西南戦争時の警視隊を引き継ぐ形でいざという時には陸軍の指揮下に入る、という条件付きながら警視隊が復活している。
これにより、警視隊が事実上の準軍隊、諸外国でいう所の国家憲兵隊の役割を担う事になった。
山縣が去った後の陸軍では、徴兵制度と参謀本部の拡充などを目指した大山巌、川上操六、桂太郎らを中心とした薩長閥と、徴兵期間の短縮や沿岸防備の拡充を主張してそれに対抗した三浦梧楼、谷干城、鳥尾小彌太、曽我祐準を中心とした四将軍派が対立するも明治天皇が個人的に四将軍派に好意を持っていたことや財政的負担と外交的軋轢の増大を嫌った伊藤博文総理や井上馨外相が四将軍派を支持した事から四将軍派がこの対立を制する事になる。
こうして、勝利した四将軍派は海軍をも巻き込んで、統合参謀本部の設立をはじめとして陸海統合を推し進め、大日本帝国陸海軍は外征軍へと脱皮を果たすことなく防衛軍としての路線が確定した。
一方、軍備を国力相応に抑えた事により、産業への投資が増え、通商国家へと転換を図る事になった。
この通商国家政策により、次第に日本はイギリスの非公式帝国へと組み込まれるようになっていった。
こうして、日本は事実上の保護国となり1914年の第一次世界大戦では不平等条約の撤廃を見返りに連合国側で参戦し、1939年に勃発した第二次世界大戦においても1940年のイタリア軍によるエジプト侵攻を理由に日本は友好国であるエジプト王国を援助するという名目でイギリス軍援助のために義勇兵を派遣したのだった。
日本から遠く離れた北アフリカで、零戦は大日本帝国の運命を背負って飛んでいた。
架空戦記創作大会のお題2、3の参加作品のつもりですが零戦も北アフリカも描写が少なすぎですね。
ほとんど背景説明ばかりになってしまいました。企画参加作品失格ですね。
一応、弁解としてはプロットが書けなくてどうにもならず、参加を諦めてた所に急にネタが落ちてきたので…まあ、希望があれば連載化してみようと思います。気が向いたらなくてもするかもですが