いらない能力
人間が何を考えているのか。そんなことは誰も知らない。創り上げられた役割を皆淡々とこなしているだけではある。なのに、本当に無駄にそれを超えてしまう人がいる。知らなくていい事を、聞かなくていい事を、聴いてしまう人が。
智樹は東京の企業に勤める32歳。
普通の大学生活を経て、普通の社会勤めをしている。
営業という仕事は様々だが、彼はいわゆるコンサルティングに近い仕事をしている。
相手が何を考え、求めているかの答えを常に求めている。物を売るという事は、相手をいかに満たす事かという事でもある。相手が企業という枠組みの中で何を求められ、そして相手自身がその枠組みの中で何を期待しているのか。それを理解しなくてはいけない。
その日も、彼は白いトヨタ車で営業に出かけた。
車は正直好きではない。東京は電車が張り巡らされているし、この埼玉でもそれは得てして例外ではない。
行きたい所へは色々な手段でいけるのに、効率化のために車を使うのが当たり前になっている。
エンジンをかけると、車体は静かに揺れ始めた。
車内ミラーに吊るした御守りが小刻みに揺れ、立体駐車場の歪な構造が、その先に広がるぽっかりとした空間を演出している。
手帳に書き込まれたスケジュールを眺め、ため息をつき、アクセルを踏む朝の作業。
ただ、息に混じった淡いアルコールの臭いは、昨日のバーで無理をした自分自身の後悔を掻き立てるものでもあった。
本当におかしな老人であった。
新年会は新宿だった。歌舞伎町のゴジラが無造作に立ち並ぶビルの2階へGoogleMAPは彼を案内した。
エレベータ自体がむっとした酒の匂いで充満していたのに、その居酒屋は彼にとってカオスであった。
今までその鼻に入ったあらゆる臭いが層になって流れ来るような、そんな臭い。席に座り、並べられた瓶ビールを手に取り、1割に減ったグラスへ注ぐその作業の繰り返し。下らない話に頷き、笑い、他人の人生への賛辞と尊敬をただただ示す。
誰かと飲むのは嫌いではないが、智樹にとってこの時間は、限りある人生の中でこの上なく無駄に思えた。
が、それもやるべき事であると理解していた。
会は終電が近づくと解散となり、彼は街に放り出された。
「帰るべきか、飲み直すか。」
客引きはひっきりなしに、その職務を果たす。
1人の今、無駄にその流れに乗るつもりも毛頭なく、ふらふらとJR線へ向かいながら彼は呟いた。
明日は土曜で休み。それなりに鬱憤は溜まっていて、お酒が軽くそれを流す事も知っている。
返すべきメールもあれば、無駄という側へ流れかけている時間もそれなりに残っている。
タクシーで1500円という誘惑もある。
ファミリーマートの喧騒を過ぎたあたりで、ふと見上げた先にそのバーはあった。
黒塗りに黄色の文字は、どこか田舎のスナックを彷彿とさせる魅惑をもって、彼を誘導していった。
5階です。そう言ってエレベータは開く。
緩やかなクラブミュージックと、メンソールの臭い。
「これは失敗かな」と智樹は思ったが、無駄な喧騒はない。アルコールで無駄に溜まった思考を流すには十分な空間でありそうだった。
だから彼はカウンターに空いた席に座り、ボウモアロックを頼み、おしぼりで顔を拭いた。