○第二回
〈ルールその一〉
マスクに記した名前を他者に見られることなかれ。
この禁を破った者、想いは届かず、決して結ばれず。
昼休み、それは希少なマスクを巡る決戦の時――
騒動開始から二週間たった今でも、この三十分だけは日常など何処吹く風の血で血を洗う抗争が繰り広げられている。この表現は誇張でもなんでもなく、腕の骨を折る、鼻血を噴く、近年稀に見るでっかいたんこぶをつくるなど、怪我をする生徒はあとを絶たない。穏やかでないにもほどがある。それでも唯一救いがあるとすれば、保健室に助けを求める人間がいないことか。
同じ高校に通う仲間の為にも、「もうやめろ」「そのうち怪我ではすまなくなるぞ」と諫めるのが、無理矢理にでも止めるのが紳士としての義務かと、そう考えたこともあった。あったが……
言うは易し、行うは難し。
藪をつついた一人の男子生徒の末路を、俺は知っている。それが手出し口出しを封じているのが実情だ。
以下に詳細を記す。ちなみに蛇足ではあるが、紳士とは俺のことだ。
成績、容姿、身長から体重、更には視力まで、何もかもが普通。特に目立たず、さりとていなければいないでどこか寂しい、脇役を地で行くクラスメイト。彼の名は浜崎という。
あの男が波風を立てることなどないだろうと思っていたが、しかし浜崎も人間だ。当然、虫の居所が悪い日もある。
事が始まって間もない頃に、それは起こった。
浜崎が授業中に突如奇声を発し、隣の席の女子、小林のマスクをおもむろに剥ぎ取り、その裏側を見てしまったのだ。小林もまた女性が出してはいけない声を発し、彼の脇腹へ強烈な肘鉄をお見舞いした。電光石火とはまさにあれをいうのだろう。幸い、マスクに書かれた名前が衆目に晒されるまでは至らなかったものの、最早あとの祭りであることは誰しもが承知していた。
床に転がり悶絶する浜崎の胸ぐらをつかみ、目に涙をためながら小林は言った。
「地獄を見せてあげるわ」
すでに見ていたであろうことは想像に難くない。
「何丁目がお好みかしらね」
女性陣の結束は固い。怒りに震える小林を筆頭に、クラスの約半数が浜崎を囲み、やがてあらん限りの罵詈雑言を浴びせ始めた。あまりの連携に、俺は感動すら覚えた。
制裁は浜崎の土下座をもって終息した。
「次はこんなものじゃすまないわよ」
決して余計な真似はするまい。そう心に誓った瞬間だった。
明良とは中学からのつき合いになる。
家から近いというただそれだけの理由で同じ高校に進学し、それからおよそ一年半が過ぎた今でも、友人としての間柄は変わらずにいる。猿顔ではあっても明良はまぎれもなくヒトであって、つまりは親友ということだ。
「どうかしてるよな」
自らを硬派と称する明良も、マスクとは無縁の学校生活を送っている。九割の生徒が騒動に参加していることを思えば、俺達は実に異質な存在だった。
居心地の悪さを感じないと言えば嘘になる。だが下手に出しゃばらない限り害はない。少しばかり尻の座りがよろしくなくても、目をつぶればいい。明良のように憤慨したところで現状に変化はないのだから。
「あんなもので願いが叶ったら苦労しないよ。なぁ、史郎?」
浜崎の件が教訓になっているのだろう。俺の耳もとで明良がぼそぼそ言う。しかし、周囲にはマスクマンがひしめいている。剣呑が過ぎる。異を唱えたいのであれば校庭に穴でも掘るがいい。
こちらの胸中を知ってか知らずか、明良が俺の耳許で呟く。
「彼女なんていらないよな?」
耳朶をかすめる生ぬるい猿の吐息。張り倒してやろうか。そう思うも、紳士である俺にそんな真似ができるはずもない。仕方なく英和辞典の背表紙で脳天に一撃を加えるにとどめた。
「そろそろ鐘が鳴る。席に戻れ」
「お前なぁ……そんなもんで叩いて馬鹿になったらどうするの?」
「安心しろ、明良」
今より下はない。