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○第一回

 礼儀を欠くことなかれ。

 幼い頃からそうしつけられてきた。だからだろう。俺はドアを意識したが最後、ノックをせずにはいられない。両親の寝室に始まり、友人宅、公衆便所、果てはコンビニまで、叩いたドアは数知れず、生を受けて早十七年、ノックの為にのみ、俺は生きてきた。すみません言い過ぎました。

 だがそれでも、インターフォンを毛嫌いし、ピンポンダッシュを潔しとせず、コンコンダッシュに明け暮れた小学生時代は確かにあった。「またお前か」と苦い顔をされたのも一回や二回ではなく、その度に俺は胸を張り、公明正大を訴え、更なる怒りを買った。

 今もまた目の前のドアを叩く。「ふぁい」と、間延びした声が応じる。

「失礼します」

 保健室の主がそこにはいる。椅子に腰かけ、俺に背を向けている。虚空にプカリと吐いた紫煙を指で縦横無尽に引っかき回し、何がおかしいのか「うへへ」と笑っている。気怠い雰囲気と相まって、白衣が実に胡散臭い。こうはなるまいと、俺は密かに誓った。

「お呼びですか?」

「よく来たね、史郎くん。まあ座りたまえ」

 空いたベッドに腰を下ろし、美咲女史と向き合う。

「冷蔵庫にレモンジュースが入っている。喉が渇いているなら好きに飲みたまえ。安くしておこう」

「それより先生。いくらなんでも保健室でタバコはまずいですよ」

「引っかかったな、史郎くん。これはタバコではないのだよ。ところで、ジュースはいらないのかね?」

「喉は乾いていません。それで、タバコじゃないとしたら何だって言うんですか?」

「教えて欲しければジュースを飲みたまえ。四百円にまけておこう」

 それはお買い得ですね、と目を輝かせるほど俺もお人好しではない。年上の、しかも女性に対して如何なものかと思ったが、否、だからこそ本人の為にも云々……来て早々、ここはひとつ頭をノックして差し上げますと、仕方なく腰を上げようとしたその時だった。

 何やら尻にあるぬくもりに、俺は気づいた。もぞもぞしながらふと脇を見やれば、頭の形にへこんだ枕があり、それがベッドを使用した形跡であることは一目瞭然だった。

 珍しいこともあるものだ。美咲女史の変態性は周知の事実であって、どれだけ具合が悪くても保健室の世話になる人間などいないと思っていた。その彼、あるいは彼女も、さぞ後悔したに違いない。

「私だよ」

「……え?」

「先頃まで私が寝ていたのだよ。あまりジロジロ見ないでくれないか。恥ずかしい」

 仕事をしろ。

「君はエロいな、史郎くん」

 言って変態養護教諭は再びぷかりと紫煙を吐き、俺をちらちら覗き見る。目は口ほどにものを言う。両の瞳が語りかける。これが何か気になるのだろう、さあ遠慮はいらない、尋ねたまえ、できればジュースも飲みたまえ、五百円ポッキリで構わないよ史郎くん。

 さりげなく値上げされたジュースの件はうっちゃっておくとして、このままでは話が進まない。俺はこれ見よがしにため息をひとつ、「聞かせてください」と言った。

「よかろう。そんなに知りたいのであれば教えてあげよう。これはね、電子タバコというものだ」

 それから美咲女史は意気揚々としゃべり倒した。電子タバコについて熱く語った。ニコチンがどうの、副流煙がこうの。そのほとんどを俺は聞き流し、右から左へ美咲女史の声が抜けていく最中、なんでノコノコ来ちゃったかなぁと後悔に後悔を重ね、然るのち、あくびをかみ殺した。

「聞いているのかね?」

「聞いてます。どうぞ続けてください」

 早く終わりにしてください、の部分はぐっと飲み込む。

「うむ、まあいい。実は今月の初めに体調不良でお医者にかかってね。色々と検査してもらったのだよ。結果、インフルエンザだったわけだが、その他にもひとつ悪いところが見つかってね」

「頭ですか?」

「君も言うようになったね。残念ながら違う。肺だよ。肺気腫だと診断されたのだ」

「……ハイキシュ?」

 薄笑いを浮かべたまま鼻から煙を噴く美咲女史の様子を見るに、それほど深刻ではないのかもしれない。だが、なんとも嫌な響きに若干の息苦しさを覚えた。

「簡単に説明すると、肺の一部が機能しなくなったということだよ。しかも、もう元には戻らないのだ。これ以上の進行を許さん、といった気概が必要になるわけで――」

「それでタバコをやめた?」

「その通り。私のことを愛する生徒諸君の為にも、この身が不健康であっては申し訳が立たないではないか。君も大好きな美咲先生の肺がプチプチとつぶれていくのを見るのは悲しいはずだ」

 どうして自分が愛されていると思えるのか不思議でならないものの、健康に気をつかって悪いことはないだろう。一応「そうですね」と言っておく。しかし、いくら美咲女史が健康に気をつかっても――

「また君はそうやって、私の肺を気づかうふりをして乳を見ているな。このエロ魔人め」

 脳細胞は現在進行形でつぶれていっているに違いない。

「ところで先生……」

 貴重な昼休みも残り少なくなってきた。大事な用がある、そう人伝に聞いたからこそ、俺は重たい腰を上げたのだ。乳談義に花を咲かせるつもりはなく、ならばそろそろ本題に入ってもらわなければ神経がもたない。

「俺は何用で呼ばれたのですか?」

「暇つぶしだよ、史郎くん。だがね、たった今やることがあるのを思い出した。もう戻りたまえ」

 言って美咲女史は手許に書類を引き寄せ、

「どうせ君も暇だろう。あの狂騒とは一線を画しているのだから」

 呆然とする俺をよそに、さらさらとペンを走らせた。

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