雲小箱 プロローグ
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トントントン。
包丁を操る音が台所に響く。
「ふぁあ。今日はしじみのおみそ汁とにらの卵とじにしましょう」
ひとつあくびをしてから、小鍋を取りだす。
冷凍庫からしじみを取り出し、水を張った小鍋にぱらぱらと入れる。
青々としたにらは細切れにして、ごま油で軽く炒める。
味付けをした溶き卵に炒めたにらを投入。
そして、フライパンに卵を流し込む。
まだ卵がとろとろの状態で火を止め、余熱で待つ事3分間。
私、檜紬原雲子はシェアハウスの台所を占有して、朝食を作る。
このシェアハウス「ハーモニー」は、
洋室11部屋と大きな台所兼食堂、談話室からなる。
元々は、ある会社の独身寮だった建物がリフォームされ、シェアハウスとして使われている。
住人は男女半々の10人。
大半が学生で、勤め人は私と自称システムエンジニアの男性だけ。
料理が一区切りした頃に、階段を降りてくる音が聞える。
「雲子~、おはよ~」
「おはよう、さやか。昨日の合コンどうだった?」
振り向くと、雲子と同い年、20歳の木田さやかが頭を抱えながら立っていた。
少しよたよたした足音だったのは、二日酔いのせいだろうか?
彼女は、少し青い顔をしている。
童顔で小柄な私と違い、さやかは長身モデル体型の大学生。
顔立ちもはっきりしていて、「大人の女」の雰囲気がにじみ出ている。
「外れ~。でも、気前は良かったからタダ飯、タダ酒堪能してきたわぁ」
コップに入れた水を一気飲みしながら、悪びれた様子も無い。
そういうことを言っても憎まれないのは羨ましいなぁと雲子はいつも思う。
「だと思った。二日酔いに効くしじみのおみそ汁あるよ」
「ありがと~雲子様。ちょっと顔洗ってくる」
そう言うと、さやかは二階に上がっていった。
このシェアハウスには、ちゃんとしたお風呂が1階にある。
そこは男女共用だが、2階にもシャワールームがありそちらは女性専用。
「うわわ、遅刻だ~」
1階の奥の部屋から、高校生の佐山健太くんが出てくる。
頭はぼさぼさ、制服のYシャツの裾がズボンからはみ出ている。
「お~い、お握りあるから持っていかない?」
「雲子さんありがとうっス!」
作っておいたお握りを、手早くアルミ箔で包んで渡す。
「俺も俺も~」
いつの間にか現れた、ツンツン金髪頭の青年がマイ茶碗を差し出す。
彼、山本ハルトくんは、音楽学校に通ってミュージシャンを目指している。
ミュージシャンと聞くと宵っ張りなイメージがあるが、
彼のバンドは早寝早起きの健康生活がモットーらしい。
彼もこれから八百屋さんの朝バイト。
私の朝食の常連さんだ。
「はいはい、大盛りね」
ご飯をめいいっぱいの富士山盛りにして渡す。
あの量の食べ物が、どこに消えているのか解らないほど、彼の体格はひょろひょろと痩せている。
いくら食べても太らないというのは、ちょっとうらやましい。
「あざーす。またバイトで野菜貰って箱に入れときますよ」
「いつもありがとう」
朝の早い時間に動き出すのは彼らだけ。
今時の大学生ともなると、試験でしか学校に行かない人もいるらしい。
朝食を終えると、残ったおかずにラップをかけ、冷蔵庫の箱に入れておく。
そして、調理した日付と時間を書いたタグを貼りつける。
その箱は、「Take Free」(好きに食べていいよ)の箱。
しかし、インスタント食品以外を調理する人は、このシェアハウスに雲子しか居ない。
そのため、誰が言ったか、その箱は「雲子箱」と呼ばれていた。
ここに材料を入れておけば、
次の日にはおいしい料理に変わっている、不思議な箱。
■
雲子は身支度を済ませ、最寄りの電車で3駅ほど揺られる。
駅から徒歩3分の雑居ビルが、雲子の勤め先だ。
この雑居ビルは雲子の両親が遺した不動産。
ここの住人は、店子であり、雇い主でもあり、
彼女の頼れる叔父、叔母たちであった。
一階の「カフェ&レストラン つむぎ」で次郎おじさんが忙しく働いているのを横目に、通用口からビルに入る。
二階の「弁護士事務所」、三階の「公認会計士事務所」を経て、4階に辿り着く。
「ひのき探偵事務所」と書かれたドアを開けた。
「士郎おじさん、おはようございます」
彼女が声をかけると、片隅のソファで毛布が揺れ動いた。
「あぁ、雲子ちゃん ふぁあ、おはよう」
「仕事ですか?」
「えぇと……」
父の末弟で、30歳を少し過ぎたくらいの士郎おじさんは視線をずらす。
私は無言で探偵事務所の中に入り、掃除を始めた。
散らかったままでは、お客さんが入る前に逃げ出してしまう。
そうなると、テナント料が取れない!
それが、いつもの日常。