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魔王が家に帰ってきたとき、その手に持っていたのは鉄鍋だった。
鍋の木蓋を持ち上げれば、山菜と猪の肉がぐつぐつと煮えたぎっていた。
その鍋をテーブルの上に置き、二人でつつき出してすぐに魔王はポツリと現状の説明を始めた。
「ここは人間界の中でも最果ての地、と言われている極西の村である。若い人間は皆、都へ行き、文もまともに来ぬらしい」
何も聞いていないのに魔王が話し出したものだから、アネモネは口の先に肉を咥えたままで動きを止める。
語らぬを是とする魔王様が説明をするなんて、明日は嵐でも来るというのだろうか。
そんなアネモネを見た魔王は片眉だけをわずかに曲げて、鍋の中身を食え、とその目線で命令した。
アネモネは殆ど噛んでいない肉を喉に流し込み、鍋に突き込んだ木製の杓子を掴んで山菜を掬い上げて、自分の器へ入れた。
その様を見て魔王は微かに頷き、アネモネが山菜を頬張ったところで、
「魔界への入り口は東の果てにある。つまり、最も魔界から離れた位置に堕ちた事になる」
と、説明を再開した。
もしかしたら、自らをババァと言ったあの老婆が魔王様に何かを言ったのかもしれない。
そう思いながらアネモネは静かに、できるだけ咀嚼音を立てずに、魔王の説明を聞くことに徹しようとした。
「この家は久しく空き家であり、村の者から譲り受けたものである。お前のことは嫁、と村の者には説明している」
魔王の平然と言い放った後半に、ごきゅりと喉を鳴らして山菜を飲み込んだアネモネは、
「な、なぜ嫁などとおっしゃったのです? 使用人とでも・・・いいえ、むしろ捨ておけばよかったものをなぜ?」
思わず魔王の説明に割って入った。
アネモネの疑問に、
「我が巻き込んだのだ。同族を見捨てる王であれと?」
魔王は語気だけを少々荒げて、そう返してきた。
アネモネは反射的にとばかりに首を横に激しく振った。
「いいえ、そうは思っておりません。ですが私など連れおいても、足枷にしかなりませんでしょう」
その言葉に魔王は、鼻をふんっとスカしてみせた。
「聡い者を傍に置くことが足枷と? なれば、イグニスなど四天王にも入れぬわ」
魔王の言葉に、アネモネは言葉を詰まらせる。
確かに、残念ながら、イグニスは猪突猛進的で、怒り狂って我を忘れてしまった時、止められるのは魔王様だけなぐらいの、破壊神そのものの筋肉バカだ。
それに何度も頭を悩ませたことのあるアネモネは代わりに、
「では、せめて使用人と仰ればよかったものを、なぜ、嫁などと」
と、更に問いただすことに切り替えた。
「落ちのびた貴族か何かと思われよと? 人の世の有り様など、400年ほど前までしかわからぬのにか」
どれもこれも魔王が上手の返しに、アネモネは歯痒い思いしかできない。
それをわかっているであろう魔王は、アネモネの沈黙に、どこ吹く風かとばかりで、自分で仕留めた猪の肉を噛み砕く。
そんな様を見たアネモネは、人間らしいフリをする自信もなければ、人間らしい妻を演じる自信のなさに、自然と溜息をこぼした。
それからの日常は、村の者が入れ替わり立ち替わり訪れること以外は変わらなかった。
魔王は朝方から外へ繰り出し、夕方近くに家へ戻ってくる。
何をしに出かけるのかは謎だが、魔王は特に答える必要性も感じていないとばかりで、アネモネも特に聞き出そうとまではしなかった。
そして魔王が家にいない間、四つ子かと思えるほどそっくりな顔立ちの老婆が、時間帯をズラしながら、ババァの雑談に付き合ってくれとやってきた。
あまりにもそっくりなものだから、さっきまでいた老婆と今きた老婆の区別がつけられず、
「忘れ物ですか?」
などと聞いてしまった結果、やってきた老婆は目を丸くした後に、村の女全員である四人が集まってしまうほどの大声で笑い立てた。
そうして、老婆たちは雁首揃えて、大声で内緒話をすると、トレードマーク代わりにスカーフを巻くことを決めた。
紫色のスカーフの老婆は、90歳でも快活なソフィア。
青色のスカーフの老婆は、85歳のぽっちゃり体型のマルガ。
赤色のスカーフの老婆は、82歳で山菜を両手に抱えてやってきたアニタ。
黄色のスカーフの老婆は、村で一番若かったことをぶつくさ言ったがために、ソフィアに笑い飛ばされた70歳のベッテ。
そのうち分かるようになるさね、とソフィアが軽快に笑って、嵐のような老婆四人衆が家から去ったのは、もうずっと前のことのように思える。
いまだスカーフなしで体型と顔だけで判別できるのはマルガだけで、残りの三人は声を聞かなければ、まだ判別はしにくい。
だが、たとえ間違った名前を呼んでしまっても、嫌な顔一つせず、ニコニコと笑って首を横に振るだけだった。
「いいさねいいさね、皺くちゃババァの区別をそう簡単に付けろと言う方が無理あるだに。まんずまんず、ワシが死ぬ前に覚えてくれればいいだに。それまでは死なんでなっ」
と言ったソフィアは豪快に笑った。
なぜ彼女たちが入れ替わり立ち替わり、この家にやってくるのか、その意図はすぐに理解できた。
一人で、家にいるのは寂しかろう。
ただそれだけの一心で、老婆たちはスカーフを首に巻いて、毎日毎日、その70年以上の人生の中で笑える話をピックアップしてくれた。
そのおかげで、少しばかり、人の世がどのようなものか情報を仕入れることもできた。
だがそんなことよりも、アネモネはただただ衝撃を受けるしかなかった。
家族から聞き、本能が囁く人の有り様とはあまりにも違う。
人とは残忍で、冷酷で、同族殺しが好きで堪らない下劣極まりない生き物だと、そう聞いてきた。
だが、目の前に座って話をする老婆達は、むやみやたらと他種族を滅ぼすような残虐性もないし、同族で殺し合うどころか、素性すらわからぬ小娘の様子が心配で伺いにまでくる。
弱者は弱者らしく、強者に従う他のない魔族とは、違う。
アネモネが言葉少なくとも構わず、顔色が良くなってきたことを喜び、体を動かせるようになってきたことに安堵の息を吐く。
そんな毎日は、あっという間に過ぎていき、アネモネが目覚めて早々に二週間が経った。
そんな日々の夜、魔王が持ってきた山菜鍋にアネモネは舌鼓を打ち、そして魔王に問いかける。
「魔王様、人とは、一体どういう生き物なのですか」
積もり積もったアネモネの疑問に魔王は無言でスプーンを器の上に置いた。
「残虐で、愚かしく、下劣であり、愚鈍な生き物である、と思えぬか」
その言葉尻だけならば、諌める言葉のように聞こえて来る。
だが、その声音は決してそうは語らない。
その表情はたとえ無表情だとしても、129年も仕えた身なればこそ、魔王の機微はよく分かる。
「はい。人全てがそうであるとは思えません。少なくとも、私の家に来る老いた女性達に残虐性の片鱗は感じません」
アネモネも器にスプーンを置いて、魔王をまっすぐに見た。
「そうか」
短く魔王がつぶやいた言葉に、アネモネは目を丸くする。
その口角がわずかに上がっている様は、仕えて129年、一度たりとて見た事がなかった。
わずかな笑みは、魔王にとっては最上級の笑みに他ならず、アネモネが言葉を返せずにいる間に、
「やはり、お前にして正解であったな。あやつらでは、我の居ぬ間に何をしでかした事か」
アネモネに話しかけている、というよりかは、殆ど独り言のようなソレにアネモネは小さく頷いた。
「同意致します。彼らであれば、恐らくは・・・」
その先をあえて濁しても、魔王はわかっているとばかりに瞼を落とした。
魔族の本能が、人への殺意を促し、その影響は力があればあるほど絶大なものだ、と聞いてはいる。
自分自身は、魔族としての単純な力では弱い部類なので、本能に突き動かされた試しがない。
だが、その話も、魔王様を見る限り、力の強さに比例して人への殺意が助長されるというのは嘘のようではある。
「人の世とはかくも複雑よ。400年ほど前とさして代わり映えはしておらんがな」
魔王はそう言うと、スプーンを手にとって食事を再開した。
「攻めるに足る理由もまたあったと」
アネモネもまた言葉を返してスプーンを手に取り、
「うむ。だが、滅ぼすに足る理由はどこにもありはしない」
アネモネの言葉に魔王はそう返した。