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それからまず取り掛からなければならなかったのは、脆弱な肉体の掌握だった。
たかだか一ヶ月ほど眠り続けた程度で筋肉が硬直し、まともに動かせなくなるとは、本当に人の肉体とは不便極まりない。
人の殻とはいえ、その新陳代謝も何もかも人間の肉体と遜色はない。
だから、一ヶ月も昏睡状態だったことによる諸々の事を魔王様にしてもらっていた、という現実もすぐに気づいた。
だが、魔王様は、
「裸体程度に何を恥じることがある」
と、どうでもいいことのように言い捨てた。
どうでもよくないというのに、魔王に言われてしまっては、アネモネは言葉を返すことなど出来はしない。
自分は転生などしなくてもよかったというのに。
とばっちりにしても、一ヶ月も昏睡させるなんてあんまりだ。
アネモネは新たな頭痛のタネを見つけてはこめかみを押さえて、浅くため息を吐き出した。
そうして二日もすれば、壁伝いではあるものの、どうにか自力で家の中を歩くことができるようにはなった。
家の内装は、寝室を出れば狭いダイニングキッチンがあり、残り三つの内扉からは、トイレ、風呂、小さな書斎スペースへと続く。
そんな状況の三日目、アネモネは外へと繰り出した魔王を柱に体を預けて見送り、静まり返ったリビングをぐるりと見渡す。
一度見れば隅々まで分かるほどに狭いながら、全ての家具から家そのものから木材で作られていることは、唯一羨ましいと思えた。
リビングに置かれた長方形のテーブルと、そのテーブルを挟む形で両サイドに椅子が二脚ずつ置かれているだけで、家の中は手狭になる。
広さだけなら、かつての魔界にある実家の方が勝ってはいる。
だが、柱に触れた時に木材のぬくもりという奴なんてものを味わうことはできず、薄暗い石壁で強固に囲まれた家は、どこに触れてもヒヤッとするほどに冷たかった。
あれが普通だと思っていたし、それに不満があったわけでもない。
アネモネは浅くため息を吐き出しながら、ふらりと柱から身を離して、テーブルの上に両手を置く。
そして、ゆっくりと足を動かし、よっこいせと言いそうなぐらいゆったりと背もたれのない椅子に腰を下ろした。
家の玄関口を眺めながら、自然とため息が零れ落ちる。
日がな一日、やることがない。
できれば料理でもと思うが、包丁を持って立ち続ける、という行為が困難な以上、魔王様に余計な仕事を増やすかもしれないと思うと、どうにも決心がつかなかった。
人の姿になって増えに増えた溜息をまた吐いて、アネモネはテーブルの上に両肘を立てて、頬杖をつく。
玄関口近くの押し上げた窓は、つっかえ棒で支えられ、暖かな日差しが窓から滑り込んでくる。
まだ一度も外には出ていないものの、窓から滑り込んでくる風のさわやかさも、日の光の暖かさも、魔界では存在そのものを知ることもなかった。
嘆息なのか、ただのため息なのか分からない息を吐き出したところで、玄関の戸を叩く音がし、
「まおーさんやい。おらんかねぇ?」
と、老婆の声が続いた。
ぎょっとしたアネモネが頬杖をやめるのと同時に、家の玄関戸があろうことか開く。
まだ緩慢な動きしかできないアネモネは、身を捻って背後の台所を見、調理台の上に並んだ包丁の一つに手を伸ばす。
椅子から転げ落ちそうになったところで、
「ほんに、起きたんさねぇ」
穏やかそうな老婆の声が背にかかってきた。
驚いて再度振り返れば、自分の座高よりも背の低い小さな人間の老婆がそこにいた。
顔の形は皺だらけながら、にこにこと笑う姿はとても優しげで穏やかに見える。
アネモネが声を出せない間に、両手に抱えた籠をテーブルの上へ乗せた。
どさっと重い音ともにテーブルの上に置かれた大きなお椀型の籠には、山菜が詰め込めるだけ詰め込んであった。
そして大仕事を終えたとばかりに息を吐いて、手近にあった椅子に腰を下ろす。
「おみゃーさんは口が聞けんのけ?」
この人間の持ち家、とは思えず、こうも当たり前のように家に入ってくるなんて、衝撃的すぎた。
魔族なら、こんな危険なことなど絶対にしない。
他の魔族の家に断りもなく、ずかずかと入るだなんて、殺しにくるか、殺されにくるかだけだ。
アネモネが目を丸くしたまま硬直していると、老婆は何を思ったか立ち上がる。
出て行くのか、と思えば、あろうことかテーブルを回ってアネモネの傍に近寄ってきた。
慌てて身構えようとしたそのアネモネの横を通り抜け、老婆は台所に立った。
そこには刃物が、と思う間に、朝方に魔王が汲んできた水瓶にポットを突っ込んだ。
ポットの中に水を入れると、魔王がやるよりも手際よく火を起こし、ポットを火にかけた。
「長いことを寝とったで、まぁわからんことも多いじゃろう。男は寡黙だでね、なんも言わんのじゃろ?」
そう言いながら、勝手知ったる自分の家とばかりに棚から茶の葉が入った入れ物を見つけ出し、ついでにティーポットも見つけ出す。
アネモネに背を向けたまま、老婆は茶の準備を始めつつ、
「だいたい一ヶ月ぐらい前かね、まおーさんは、おみゃーさんを抱えて山奥から降りてきおった。やたらと酷い雨の日でなぁ。おみゃーさんはまるで死体みたいじゃったよ」
そんなことを話し出す。
しゅこしゅこと火にかけられたポットの口から淡く白い湯気が立ち上り始めても、アネモネは口を開くことをしなかった。
彼女が何をどこまで知っているのか、それがわからないからだ。
下手に口を開いて、魔王様が吐く必要のあった偽りを暴いてしまうことになりでもしたら、笑えない状況に置かれるかもしれない。
魔王さん、と呼ぶあたりが何よりもグレーゾーンすぎた。
老婆は古の民謡を口ずさみながら、赤々と燃える炉の炎を乾いた枝葉で突く。
アネモネに警戒されていることはわかっているだろうに、老婆は気にした風もなかった。
ポットの湯が沸いたところで、火をかき消し、ポットを手に取る。
そして、ティーポットに湯気を立ち上らせながら、湯を注ぎ込んだ。
さらに食器棚を漁って見つけた二つのコップとティーポットを持って、アネモネの方を振り返る。
「茶でも飲みながら、ゆっくり話そう思ってねぇ。ババァは暇でしょうがないだで、ちょっとばかし付き合ってくれてもいいじゃろう?」
そう言いながら、コップで自分が持ってきた山菜の籠を押しやり、テーブルの上にティーポットと共にがちゃがちゃと置いた。
そして、アネモネと向かいあわせになる席に腰を下ろす。
くるりくるりとティーポットを揺らして茶葉を湯の中で踊らせ、
「ほんに、目ぇ覚めてよかったさね。目ぇ覚めん言うて、まおーさんは随分と心配しておったよ」
そう言われてアネモネは目を丸くする。
「魔王様が、ですか」
思わずそう口を開けば、今度は老婆の方が皺だらけの瞼を持ち上げた。
それもつかの間、すぐに表情は先ほど通りのニコニコ顔に戻った。
「そりゃそうだわなぁ。男は寡黙だども、そらぁ、嫁んことは大事さね」
その言葉に返す言葉など、アネモネには無い。
魔王様の嫁など、ありえない。
魔王様が嫁として迎えるべき魔族は、もっともっと上位のものであるべきで、たかだか稀有な能力だったがために四天王の末席に入り込んだだけのような魔族が嫁などあり得ない。
使用人とでもすればよかったものを、どう転んで嫁と偽ったのか、まるで理解できなかった。
アネモネが言葉を返せずにいても、老婆はにこにことした笑顔を崩さずに、いい感じに味の出た茶をコップに注ぎ込み出す。
若い嫁だから、きっと夫の考えてたことなど知らなかったのだろう。
仕方がない、仕方がない。
そう表情で語る老婆は、暖かな紅茶をアネモネに差し出した。
アネモネはそのコップを両手で受け取り、
「あ、ありがとうございます・・・」
と、どうにか礼だけを喉から絞り出した。
それに満足げに微笑んだ老婆は、自分にも淹れた紅茶をずずずっと啜る。
そして、その味にホッと一息を吐くと、自らが収穫した山菜の一つを籠から取り出し、かじった。
「んん! うんうん。茹でりゃええでね、座っとっても茹でるぐらいは出来らぁな?」
その言葉にアネモネが頷くのと、玄関の戸がノックもなしに開くのは同時だった。
「来ていたか」
紐を肩に担いだ魔王が、そこに立っていた。
アネモネは目礼で魔王に挨拶し、老婆は振り仰いでにこりと頷いた。
「んん。来ておったとも。山で採れた菜っ葉を分けてやらっかと思っての。嫁が起きたなら、遠慮せんで、早う言えばよかっただに」
その言葉に魔王は頭を横に振った。
「いや、家まで提供してもらっている。それ以上の迷惑はかけられん」
その言葉に老婆は軽快な声で笑った。
「何を言うとる。こんな寂れた村に若う人がおるんだけで良いことだに。遠慮なんてせんこっちゃ」
その言葉にしばし黙った魔王は、
「ではこれを調理できるだろうか? 仕留めたは良いが、調理法が分からん」
そうして、肩に担いだ紐を地面におろせば、大型犬ほどの大きさのイノシシがずしりと床の上に転がった。
それを見た老婆は先ほどの緩慢な動きを忘れたように、すくりと立ち上がった。
「はぁー! こんな大きなシシ仕留めんたんけ! ようやりおったのぉ。こりゃ大仕事よ。血抜きはまだけ?」
「ああ、正直、どこから手をつけたものか・・・」
本来のお姿なら、仕留めるついでにこんがり焼くことも可能だったろうに。
そう思うアネモネは二人のやり取りを黙って見守った。
「はよせんと、臭うなる。ほれ、持ってこんさい。教えたる」
その言葉とともに老婆は機敏な動きでイノシシを跨ぎ超えて、外へと出て行った。
「では、少々行ってくる」
魔王はアネモネに声をかけてから、イノシシを担ぎ直して出て行った。
残されたアネモネは少しヌルくなった紅茶に口をつけ、浅くため息を吐き出す。
いろいろ聞きたいことはあるというのに、家の中は静かだった。