一
私は桜のことが嫌いだったのだろうか。よく分からない。ただあの澄み渡った、何の濁りも歪みもない瞳はかなりクるものがあったが、嫌いだと聞かれれば確実に違うと言える。
劣等感といわれれば、ああ、と納得しそうにもなるが、それも違うような気がする。
人間関係に置いてはほぼ完膚なきまでに叩き潰され、絶望に追いやられたが、その他のことで自信をなくしたときかれれば、違う。
私は彼女のことが好きだったのだろうか。
私の家が富裕層と呼べたのは大よそ私が5歳の時までくらいだろう。私が小さい頃やけに仕切り屋だったのはそれが原因だと思われる。
そして富裕層から外れ、父と母の仲が悪くなるにつれ、私も比例するようにあまり感情を見せなくなっていった。うつ病一歩手前の母親のために、同情する素振りや理解する振りも覚えた。母が頼りにならなくなると父が家にいなくなり、家庭よりも仕事に比重を置くようになった。そんな家庭状況の中で私はよく頑張ったと思う。今考えてみても、充分だと思う。
しかし、そんな崩壊寸前の家に訪れたのが桜だった。父の妹の子供。彼女は両親が交通事故で亡くなったため私の家に引き取られることになった。
綺麗な少女だった。はじめてあったときは、青白い肌に色を失った唇だった。しかし目は大きく、それを縁取る睫毛は、目じりのほうで緩くカールしていた。
まるで頼りない、しかし繊細な、力強い目で私を見てきた。母は流石に気を使ったのか家事を少し頑張るようになり、父の帰りも早くなった。その変化を起したのが彼女の境遇だとすると。その後の変化は彼女自身に依るものだと思う。彼女は健気で、それでいて強かった。両親が彼女を溺愛するまでにたいして時間は掛からなかった。
『今日は桜がご飯作ったのよ、あとでお菓子を作る約束もしてるのよ、ねー?』
楽しげに桜に話しかける母親と、照れたように服をプレゼントする父。
桜が嬉しそうに俯いていた。私は微笑を浮かべながら『三人』を見ていた。
きっと私は一人になる。私はその日から、あまりリビングに行かないようにした。
桜は私に遠慮していた。同い年の女同士が一緒に住み始めたら、そういう対抗意識とか複雑なあれこれが生まれていくのは自然なことだったと思う。ただ私もそうだったが、見えていたのだ、境界線が。おそらく彼女も見ていた。
決して私達は相容れないということを。
私はかなり限定された意味で、カリスマだった。私にはよく依存してくる人が現れた。ほとんどはコンプレックスを持っている人間たちで、私は彼ら彼女らのことが面倒くさかった。彼ら彼女らは私についてまわり、私に尽くそうとしたり、甘えたりした。私は彼ら彼女らのダメな部分を許容していると見せかけて、拒絶して、嫌悪していた。
それを桜は見抜いていた。
桜が許容し、直そうと尽くすのに対し、私が決定的に何かをしようとしない人間だと。
時が過ぎ、私達は高校生になった。私と桜が同じクラスになったとき、私は予測した。そしてその通りになった。彼女がクラスでも色々な人に好かれ、愛され、その輪が学年までも広がっていた。下級生からも憧れの目で見つめられていた。彼女を嫌う人もいたが、最終的にはそのまっすぐな、しかし柔軟な態度に好意を持った。
驚くほど、私は桜のことに関与しなかった。それこそ文化祭で彼女に起こった有名な事件にも、なにもかも。
私の周りから人が離れるのは意外と遅かった。
私に依存していた人間は桜を敵視した。
ありとあらゆる妨害工作をし尽くし、直接的にも間接的にも悪口を言いまくっていた。まともな人間、それこそ普通の友人は離れていったし、クラスメイトも私と彼ら彼女らを遠巻きに見ていた。
「宗教かよ」と誰かが、気持ち悪そうに呟いていた。
私は「やめたら」と、その行為に一言だけ意見を言った。
私には分かっていた。
彼ら彼女らも彼らも離れていくのだろうなと。
私が何を言おうと離れていく。関わるのも嫌だった。
その行為に対して桜は真っ向から立ち向かった。
「私があなたたちに何かした? もしそうなら、謝る。違うのなら、そうだね仲良くしたいな」
そうまっすぐな目で桜は私の、『信者』を射抜いた。私は不干渉を貫いていた。
私の周りにいたそいつらはソロソロと私を眺めた。
私はため息をついた。なぜか恐怖の目で見てくる。私だって馬鹿じゃない。私のためだけに、あれだけの行為が出来るわけはないのだ。個人の感情というものがあったのだろう。薄々分かる。構ってほしいとか、そんな幼稚な感情だろう。彼ら彼女らは幼稚なのだ。構ってくれれば誰でもいい。私じゃなくても、同じことなのだ。
「いい加減にしなよ。自分で決めろ」
そう言いたかった。ただクラスメイトの視線もあったから、一言、
「いい頃合だと思うよ」
私から離れるのに、私は心の中で呟いた。一応の配慮だったのだが、その心の呟きはほとんど彼ら彼女らに伝わっただろう。一部のクラスメイトにも。そして桜は私の「いい加減にしろ」という部分まで読み取っただろう。そういう子なのだ。感情に聡い。
桜の視線は鋭かった。じっと探るように私を見つめた。何を考えているのだろう。私はそのとき初めて至近距離でじっくり彼女の目を見つめた。
黒くて、澄んでいた。ただどことなく翳っていた。美しい瞳だ。目を見ると感情が分かるとか言う。私は信じたことはなかった。でも彼女の瞳は本当にそういう風に見えた。
こういう子がほんとうのカリスマなのだと思った。
そして4ヶ月持ったか、と感慨無く思った。