2章 勇者の姉、襲撃される-5
「なんで俺が……」
ぶつぶつと文句をつぶやくアルヴィンに、答える者は誰もいない。
近くに座っている女官は、だいぶ前から船をこぎ出して夢の世界へ旅立ってしまった。
親と同じ年齢の人でもあったので、自分さえ起きていれば問題ないからと、アルヴィンは彼女をそっとしておいている。
解せないのはその事じゃない。
小さく開けた扉の向こう。ランプの儚い明かりが揺れる部屋の中に、天蓋の布で覆われた寝台が見える。そこで眠っているはずの少女。
勇者の姉、イオリの事だ。
「どうして俺が、あいつの警護をしなくちゃならない」
他に適任な人間がいくらでもいたはずだ。
それなのにフレイときたら『他にも侵入者がいないか捜索させるのに、人手がいります。私はそちらの指揮をとりますので、殿下はイオリ様の方を担当してください』と言うなり、さっさと消えてしまったのだ。
残っていたのは、衛兵二人と付き添いの女官だけ。
衛兵の片方に女性の部屋の中へ入って警護をさせるなんて、さすがのアルヴィンにもできなかった。
何か問題が発生したときに、ルヴィーサのごとくこの女官が大騒ぎするかもしれない。王子である自分なら、後々もみ消したりすることもできる。いたいけな衛兵が犠牲になることはない。
「しかし、ユーキ達の世界ではあまり気にしないものなのか?」
アルヴィンは首をひねる。
イオリは寝室に入ると、すぐに眠ってしまった。この分だと男の衛兵が同室していても、気にせずに眠っていただろう。
アルヴィンはイオリが異常なまでの眠気に襲われていたことも知らない。だから彼女がすごく図太い人間に見えていた。
とりあえず、簡単に人の足を蹴ってくるような女のことだ。彼らの世界では気にしない部類の代物なのだろうとアルヴィンは納得する。
そこで蹴られたことを思い出し、むっとした。
「……泣いたくせに」
女官の死体を、息を止めて見つめていたイオリ。
大抵の女は死体を見たら悲鳴を上げて卒倒する。だけどイオリはそのどちらでもなかった。
ただじっと起きてしまったことに向き合っているような姿は、さすが勇者の姉だけあって、根性が座っていると思ったのだ。
しかし相手は女性だ。強く握り締めてくる手にそれを思い出し、彼女の視界を遮った。そしたら、
「どうして急に泣くんだ」
泣いてしまったイオリ。その時はやっぱり彼女も女なんだと思った。
それにいつかユーキが言っていた。もしイオリがこの世界へ来ることがあったなら、穏やかな世界に住んでいた人だから、怖がらないように守ってやってほしいと。
「でもこれだけ図太いなら、気を使う必要ないだろ」
多少拗ねた気分でつぶやいた時、どこからか声が聞こえた。
アルヴィンは周囲にさっと視線をめぐらせる。居間の部分には問題はない。
先ほどの侵入者は、どうやら何者かが誘導して、魔術によって侵入した事がわかっている。が、多少魔術を扱えるアルヴィンが感覚を研ぎ澄ませても、魔術の波動は伺えない。
また声が聞こえる。寝室からだ。
腰を浮かせかけて、アルヴィンははたと思い出す。
いくら王子を平気で蹴る無礼者とはいえ、相手は女だ。そのせいで隣室待機なんてしているのではないか。
とりあえず、半開きの扉からそっと中をのぞく。特に誰かがいる様子はない。そしてもう一度聞こえた声は、やっぱりイオリのものだ。
「…………ぁさん」
誰かを呼んでいるようだ。ただの寝言かとも思ったアルヴィンだが、もう一つ可能性を思いつく。急に体調でも悪くなったせいで、あんな小さな声しか出せないとか。
気になり出すと落ち着かない。
ややしばらくはじっと座っていたアルヴィンだったが、もう一度声が聞こえた時点で、耐えらずに立ち上がった。
静まり帰った暗い寝室の中へ踏み込むと、入っては行けない場所に侵入した気分になってくる。
(遠慮はいらん。相手は人を蹴るような奴だぞ)
自分に言い聞かせて、アルヴィンはそっと寝台に近づく。
小さな手が、胸元で上掛けを握りしめていた。横を向いた顔には、眉間に辛そうなしわが寄っている。
「……ぁさん、ごめ…なさ……」
間違いなく、イオリの声だった。それよりも内容にアルヴィンは驚く。ごめんなさいだなんて単語が、彼女の口から出てくるとは思わなかった。
(いや、確かにありがとうと礼の言葉は言われたし、言ってもおかしくない、か?)
驚いた分だけ、余計に見てはいけないものを見た気になってくる。
彼女は寝言を言ってるだけだ。戻ろう。
そう思った瞬間だった。
イオリが首を動かした瞬間、ランプの明かりを反射しながら、一筋の涙が目からこぼれ出る。
こめかみを伝って流れ落ちていった涙に、アルヴィンは息を飲んだ。
「どうして……」
やっぱり、女官が死んだことは彼女にとってショックだったのだろうか。だから泣いていたのか。声を殺すようにして。
その後はずっと平静を保っていたし、アルヴィンを蹴る元気もあった。だから平気になったのだと思っていたが、本当は全部強がりだったのか?
アルヴィンは思わず手を伸ばしていた。
そっと涙を拭ってやると、イオリの左手が動いてアルヴィンの手首を掴んだ。
「ゆーき……」
手を握りしめたまま、イオリがほっとするようにつぶやく。眉間のしわもなくなり、彼女はそのまま静かに寝息をたてはじめる。
アルヴィンは、手首を握られたまま動けなくなっていた。
彼女の手を離すのはたやすい。今にもほどけそうなほど、かすかな力しか入っていない。もう少し待てば、イオリの手の方が勝手に離れていくだろう。
だから。
アルヴィンは寝台脇に腰掛けた。
そして彼女から手を離すまで、動かずに待っていた。