2章 勇者の姉、襲撃される -3
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地面が、心臓のように拍動している。
木々がその鼓動にざわめいた。
嵐の夜みたいに、うねり、激しく葉を打ち鳴らし、世界に音を広げていく。
真っ暗だった視界に、とろりと赤い絵の具が落ちた。
違う。扉の隙間から流れ出てくるものは、子供の使う絵の具にしてはあまりに粘度が高すぎる。
その血をたどると、白い指先が見えた。
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「…………っ!」
飛び起きた伊織は、急いでベッド脇のスツールに置いてあったガウンを羽織った。
ランプの明りを消さないままだった室内を見回し、そっと居間と寝室を隔てる扉に近寄る。
扉の隙間から、血が流れ出ている様子はない。その場にしゃがみこんでほっと息をついたが、肝心なことを思い出す。
居間に人はいない。居間からの続き部屋に、女官が待機しているのだ。
まさか、と心の中で思う。
きっと不安で変な夢を見たのだ。急に異世界に来て、自分では気づかないくらい疲れていて……。
ぎりぎりと唇を噛み締めながら、それでも確認しなくてはと決意した時だった。
唐突に、目の前の扉が開かれる。
伊織の顔から数十センチのところに、見知らぬ人の足があった。ズボンを履いているから多分男だ。
「ちっ、いないか……」
相手のささやき声は、本当に小さかった。
だけど心臓が止まるほど驚き、思考が停止していた伊織の目を覚ますには充分だった。
しゃがんだ体勢のまま床に手をついて勢いをつけ、伊織は部屋に踏み込んだ男の横をすり抜ける。
「あっ、こいつ!」
力の入らない足を叱咤して、居間に飛び込んですぐテーブルにすがりついた。
本当は助けを呼びたかったが、ショックで叫ぼうにも声が出ない。だから、テーブルクロスを思い切り引っ張った。
石の床に落ちていく花瓶やティーセットが、高らかな音をたてて砕け散る。しかも上手い具合に男の足元へ落ちた。この音で扉の外にいる衛兵が気づいてくれるだろう。
そのまま伊織は男の顔を確認せずに移動する。
さっきよりは足も動くようになった。だけど声はまだ出ない。扉は開かない。
「たすけっ……」
かすれるような声が、扉の向こうへ届くはずがない。
だからって諦めない。
自分が捕まったりしたら、悠樹の足手まといになる。伊織はタックルするような形で扉にぶつかった。
ドアノブを上手く掴めなかったので、扉に当たった音がするだけだと思った。しかし扉は向こう側に開いて、誰かに抱きとめられる。
「イオリ殿!」
その声に、体の力が抜けそうになった。
フレイの声。そして彼の顔が見える位置に、伊織は抱き上げられた。
「誰かが、部屋にっ」
そう言って伊織はようやく背後を振り返る。
既に二人の衛兵たちが部屋の中に踏み込んでいた。彼らと共に、金の髪の人物が見える。
アルヴィンに対峙するような位置に、自分を追いかけてきていた男がいた。
黒い覆面をして、上から下まで黒ずくめの格好だ。
侵入者は衛兵の剣を避け、アルヴィンの剣に肩口を浅く斬られる。それはアルヴィンにしてやられたというより、逃げるために斬られるのも仕方ない、という判断だったようだ。
侵入者は逃げるのを優先して窓へ走り、硝子を突き破って外へ躍り出た。
すぐさま後を追おうとしたアルヴィンは、窓の下を見て衛兵に指示する。
「下の見張りに今の男を追わせろ。急げ!」
衛兵が部屋を飛び出して行き、アルヴィンがこちらを振り返った。
「怪我はないか?」
尋ねられて、伊織はぎこちなくうなずく。どこの筋肉も萎縮したように、首も上手く動かない。けれど今すぐ確認しなくてはならない事があった。
「フレイさん、降ろしてもらえますか?」
お願いされて、フレイはそっと伊織を床に立たせてくれた。歩こうとすると、まだ足が萎えてしまっているのか、ふらつく。
思わず差し出したといった感じのアルヴィンの手を借り、伊織は続き部屋へ近づく。
扉の下へ目を向けた。何か、赤黒い染みがあった。
同じ物に気づいたのだろう、アルヴィンが呟く。
「これは……」
伊織はドアノブに手を伸ばす。そして扉を開いた。
扉は何か柔らかいものにあたって、途中で止まる。赤黒い染みは部屋の中にも続いており、その先に白い手と腕が見えた。
予想通りの光景に、伊織はは吐き気を感じる。堪えるかわりに、思わずアルヴィンの手を強く握った。
息を飲むような音がして、伊織の身体は引かれるままにアルヴィンに向って倒れこむ。そのままマントに包まれて視界が覆われてしまった。
「フレイ、遺体を運ぶ手配を頼む」
その言葉で、伊織はようやくアルヴィンの意図がわかった。彼は、遺体を見ないで済むようにしてくれたんだ。
身体を支えるアルヴィンの腕から伝わる暖かさが、なんだか痛い。
だって、彼女が死んだのは自分のせいかもしれないから。
もし夢を見た後すぐに叫んでいたら、死んだ女官を助けられたかもしれない。一度、母が死んだ時に後悔したはずなのに。伊織は「まさか」と思ってできるはずのことをしなかったのだ。
「ごめん……」
彼女にはもう届かないとわかっているのに、伊織は謝らずにはいられなかった。口に出すと、関を切ったように涙が溢れた。
全身から力が抜けていくような気がして、アルヴィンの手も離してしまう。
けれど、今度は彼の方が握り締めてくれた。
そのままアルヴィンは、別の部屋へ移って伊織が泣き止むまで、ずっとその手を握っていてくれた。