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2章 勇者の姉、襲撃される -3

  ***


 地面が、心臓のように拍動している。

 木々がその鼓動にざわめいた。

 嵐の夜みたいに、うねり、激しく葉を打ち鳴らし、世界に音を広げていく。

 真っ暗だった視界に、とろりと赤い絵の具が落ちた。

 違う。扉の隙間から流れ出てくるものは、子供の使う絵の具にしてはあまりに粘度が高すぎる。

 その血をたどると、白い指先が見えた。


   ***


「…………っ!」


 飛び起きた伊織は、急いでベッド脇のスツールに置いてあったガウンを羽織った。

 ランプの明りを消さないままだった室内を見回し、そっと居間と寝室を隔てる扉に近寄る。

 扉の隙間から、血が流れ出ている様子はない。その場にしゃがみこんでほっと息をついたが、肝心なことを思い出す。


 居間に人はいない。居間からの続き部屋に、女官が待機しているのだ。

 まさか、と心の中で思う。

 きっと不安で変な夢を見たのだ。急に異世界に来て、自分では気づかないくらい疲れていて……。

 ぎりぎりと唇を噛み締めながら、それでも確認しなくてはと決意した時だった。


 唐突に、目の前の扉が開かれる。

 伊織の顔から数十センチのところに、見知らぬ人の足があった。ズボンを履いているから多分男だ。


「ちっ、いないか……」


 相手のささやき声は、本当に小さかった。

 だけど心臓が止まるほど驚き、思考が停止していた伊織の目を覚ますには充分だった。

 しゃがんだ体勢のまま床に手をついて勢いをつけ、伊織は部屋に踏み込んだ男の横をすり抜ける。


「あっ、こいつ!」


 力の入らない足を叱咤して、居間に飛び込んですぐテーブルにすがりついた。

 本当は助けを呼びたかったが、ショックで叫ぼうにも声が出ない。だから、テーブルクロスを思い切り引っ張った。

 石の床に落ちていく花瓶やティーセットが、高らかな音をたてて砕け散る。しかも上手い具合に男の足元へ落ちた。この音で扉の外にいる衛兵が気づいてくれるだろう。

 そのまま伊織は男の顔を確認せずに移動する。

 さっきよりは足も動くようになった。だけど声はまだ出ない。扉は開かない。


「たすけっ……」


 かすれるような声が、扉の向こうへ届くはずがない。

 だからって諦めない。

 自分が捕まったりしたら、悠樹の足手まといになる。伊織はタックルするような形で扉にぶつかった。

 ドアノブを上手く掴めなかったので、扉に当たった音がするだけだと思った。しかし扉は向こう側に開いて、誰かに抱きとめられる。


「イオリ殿!」


 その声に、体の力が抜けそうになった。

 フレイの声。そして彼の顔が見える位置に、伊織は抱き上げられた。


「誰かが、部屋にっ」


 そう言って伊織はようやく背後を振り返る。

 既に二人の衛兵たちが部屋の中に踏み込んでいた。彼らと共に、金の髪の人物が見える。

 アルヴィンに対峙するような位置に、自分を追いかけてきていた男がいた。

 黒い覆面をして、上から下まで黒ずくめの格好だ。


 侵入者は衛兵の剣を避け、アルヴィンの剣に肩口を浅く斬られる。それはアルヴィンにしてやられたというより、逃げるために斬られるのも仕方ない、という判断だったようだ。

 侵入者は逃げるのを優先して窓へ走り、硝子を突き破って外へ躍り出た。

 すぐさま後を追おうとしたアルヴィンは、窓の下を見て衛兵に指示する。


「下の見張りに今の男を追わせろ。急げ!」


 衛兵が部屋を飛び出して行き、アルヴィンがこちらを振り返った。


「怪我はないか?」


 尋ねられて、伊織はぎこちなくうなずく。どこの筋肉も萎縮したように、首も上手く動かない。けれど今すぐ確認しなくてはならない事があった。


「フレイさん、降ろしてもらえますか?」


 お願いされて、フレイはそっと伊織を床に立たせてくれた。歩こうとすると、まだ足が萎えてしまっているのか、ふらつく。

 思わず差し出したといった感じのアルヴィンの手を借り、伊織は続き部屋へ近づく。

 扉の下へ目を向けた。何か、赤黒い染みがあった。

 同じ物に気づいたのだろう、アルヴィンが呟く。


「これは……」


 伊織はドアノブに手を伸ばす。そして扉を開いた。

 扉は何か柔らかいものにあたって、途中で止まる。赤黒い染みは部屋の中にも続いており、その先に白い手と腕が見えた。

 予想通りの光景に、伊織はは吐き気を感じる。堪えるかわりに、思わずアルヴィンの手を強く握った。

 息を飲むような音がして、伊織の身体は引かれるままにアルヴィンに向って倒れこむ。そのままマントに包まれて視界が覆われてしまった。


「フレイ、遺体を運ぶ手配を頼む」


 その言葉で、伊織はようやくアルヴィンの意図がわかった。彼は、遺体を見ないで済むようにしてくれたんだ。

 身体を支えるアルヴィンの腕から伝わる暖かさが、なんだか痛い。

 だって、彼女が死んだのは自分のせいかもしれないから。

 もし夢を見た後すぐに叫んでいたら、死んだ女官を助けられたかもしれない。一度、母が死んだ時に後悔したはずなのに。伊織は「まさか」と思ってできるはずのことをしなかったのだ。


「ごめん……」


 彼女にはもう届かないとわかっているのに、伊織は謝らずにはいられなかった。口に出すと、関を切ったように涙が溢れた。

 全身から力が抜けていくような気がして、アルヴィンの手も離してしまう。

 けれど、今度は彼の方が握り締めてくれた。

 そのままアルヴィンは、別の部屋へ移って伊織が泣き止むまで、ずっとその手を握っていてくれた。

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