6
彼はほぼ垂直に舞い上がったシェンリィスの姿を見てキイスは一瞬呆然とした。
フェリアルト種は身体が大きく重いため他の種族に比べて飛ぶのが不得意な種族だ。比較的細く小柄なセイムなどは素早く動ける方だったが、やはり他の種族の方がよほど早い。他の種の竜を見る機会は無いわけではなかったが、これほどまでに速い竜を見たのは初めてだった。レミアスの竜もそれほど飛ぶのを得意としていなかったはずなのに。
「キイス様!」
「分かってるっ!」
叫ぶカリアの声を聞いてキイスも真っ直ぐ飛び上がる。
弟と戦っている竜はアグラムという名の竜だ。町中でクウルを襲い、セイムの腕を切り落とし、トランタに傷を負わした凶悪な竜。シェンリィスは迷わず彼を引きはがしに掛かっていた。
間を割って入られたクウルが彼らを追いかけようとするが、迫るキイスの気配に気付いたのかこちらを向いた。
「……っ」
ぞっとした。
それは、自分の弟の顔ではなかった。
否、金色の光に包まれていること以外は彼は自分の弟の普段の姿だ。その顔立ちも、短い髪もクウルのままだった。けれど、その表情が一切抜け落ちているのだ。身体全体で楽しむような弾けそうな笑顔も、気分次第でころころ変わる表情も、人懐っこい笑顔も何もない。
眠っている時ですらめまぐるしく変化していると感じる表情がそこには何もない。
「ク……」
呼びかけようとした瞬間彼が手を振り上げる。
黄金色の斧。
まずい、と思ったのは本能だった。反射的に自分の腕を変化させ、盾のようにして身を守った。
魔力の塊がキイスに苛烈な攻撃をする。
磁の力でははじき返せないと判断したキイスは防御に徹する。フェリアルトの中でも身体の強い方だったが、ちりちりと腕が痛む。そのまま弾き飛ばされてもおかしくない魔力だった。それでも、弟が纏う魔力を見ればそれでも相当に加減されたことが分かってしまう。
こんな規格外の魔力を彼は持っていなかったはずだ。
「クウル! こんの、馬鹿弟っっっ!」
キイスは吠える。
「てめぇ、兄に向かって魔法ぶっ放すとはいい度胸してんじゃねぇか! 兄を敬えって再三言ってるだろうがっ!」
普段ならばここで言葉が戻ってくる。
まるで自分をわざと怒らせようとしているような可愛くない言葉が戻ってくるはずだ。兄を兄とも思っていない態度で、生意気で憎たらしくて、それでもどこかキイスに甘えるようないつものクウルの言葉が。
けれど、それはない。
クウルは虚ろな表情のままもう一度斧を振り上げる。
キイスはもう一度その攻撃を受け止めた。
「……っ!」
先刻より強い。
それでもけしてキイスに重傷を負わせるような攻撃ではなかった。
おそらくクウルは竜の姿に変わろうとしているのだろう。ただ、持って生まれた力の強さ、そして変化に伴う混乱で平常心を失っている。けれど完全にクウルという人格が消し飛んだという訳ではないようだ。正気を完全に失い、ただ周囲を攻撃するだけの生き物になっているのなら最初の一撃でキイスはやられている。
(なら、あいつの芯の部分を揺さぶればいいっ)
キイスはクウルに向かって飛ぶ。
竜は本来戦いを好む生き物である。それはクウルも同じだった。訓練で自分より強い竜を相手に思いっきり身体を動かすことは好きだった。まだ未熟な所はあるが、年々力を付けていくのを感じる。
けれど、彼は命のやりとりを好まない。小動物を愛し、竜の気配に怯え近づこうとしない野生の動物たちですら彼にはとても懐く。誰かが怪我をすれば本気で心配をし、命を落とせば見知らぬ竜でも号泣する。そういう優しい子どもなのだ。
だからこそ、彼の心をゆらす方法がある。
「クウルっっ!」
攻撃を交わしながらキイスはクウルへの攻撃の範囲に入る。
虚ろな眼差しが見つめる。
キイスは武器を繰り出しクウルめがけて振り下ろした。クウルも同じように振り上げる。二つの武器が激しくぶつかり合う。
ふと、キイスは自分の武器を消した。
激しくぶつかり合い、振り切った状態の斧は止まることを知らず、キイスの腹部めがけて斬り込まれた。
「……っ」
硬化させてもなお斧は食い込み血が飛沫となってクウルに注いだ。
彼の頬が赤く染まる。
見開かれた瞳に光が戻る。恐怖と混乱が入り交じったかのような色を帯びて。
「ぁ………あ……?」
「目、覚めたか? 馬鹿弟」
痛む腹部を押さえキイスは笑って見せる。
「キイ………ス……?」
自分の血に染まって、顔色など分からないと言うのに、彼の顔は青ざめているように見えた。
何かを傷つけることを怖がる弟。
まだ恋も知らない幼い子にとって血の繋がった身内というのは何よりも大切だろう。自惚れでなければクウルにとって自分は最愛の竜だ。
その血は猛毒にもなれば、万能薬にも成り得る。
「大丈夫だ思ったより浅いからな」
「なん、で、キイス、こんな……」
混乱する彼をキイスは抱き寄せる。
「ばーか、弟守るのは兄貴の役目だろうが。何があったか知らねぇが自分見失いやがって。あんま手間掛けさせるんじゃねーぞ」
「怪我……俺が、やった……」
「こんなの怪我のうちに入るかっての。思ったより血が噴き出してビックリしただろ」
「……嫌だ……なお、して」
「後でちゃんとカリアに治してもらうから心配する……な?」
クウルの手がキイスの腹部に触れる。
金色の光がクウルを通してキイスの身体に流れ込む。
「……っ」
腹部が熱い。まるで炎を飲み込んだかのようだ。
「な、クウルお前……っ」
「大丈夫、俺が‘頼む’から」
「っ!」
がくんと、身体の力が抜けるのが分かる。身体の制御も魔力の制御も出来ず、身体は真っ逆さまに地上に向かって落ちていく。キイスはクウルを庇うように抱きかかえ、目線を廻らせる。
カリアのいる位置まで遠くはない。
少しだけ動く体をよじらせほんの僅か融通の利く魔力で速度を緩めながら落ちる軌道を修正する。
「キイス様! こちらです!」
漂うカリアの魔力が二人に絡みついた。
頭の中に何かが流れ込むような感覚がある。
流れ込むのは朧気な景色。見たこともないはずの光景。けれど、ずっと知っているような気がする奇妙な感覚だ。
(何だ? ここは……)
気が付くとキイスは何もない場所に立っていた。
抱きかかえていたはずの彼の姿が見あたらない。代わりにキイスの身体は黄金色の膜に包まれていた。
(この気配………クウル?)
姿形はない。けれど、柔らかい黄金色の気配は弟のような気がした。
キイスは辺りを見回した。
一面が黄金色に輝いて見える。
(うみ……?)
頭の中に言葉が流れ込む。
(はじまりと、おわりの……きんいろのりゅうがとけた、うみ)
「……イ………兄貴っっ!」
「っ!」
揺さぶられ、キイスははっと目を見開いた。
「起きろよ、兄貴っ! 寝てるんじゃねぇよっ!」
座り込む自分の胸ぐらを掴んで揺さぶっているクウルの姿が見える。二度三度瞬いて廻らした視線にカリアの姿も見えた。
「……ん……あ?」
声を上げるとクウルが顔を上げた。
目を涙で一杯にしたクウルがホッとしたように笑みを浮かべる。
「………っっ、も、戻ったぁ~」
「何があ………おい、馬鹿弟、俺の服で涙拭くんじゃねぇ!」
「うるせぇ! 馬鹿キイス! 心配したんだかんなっ!」
ぐりぐりと胸に顔を押しつけるようにクウルが叫ぶ。
「どうしたんだ、一体俺は何を……」
ふと先刻の傷が無いことに気付いた。服に血が残っているのに、まるで何事もなかったかのように傷も痛みもない。
自分の頬に涙が伝っている。拭って不思議な感じがした。悲しくもないのに涙が止まらない。
「………??」
「申し訳ありません、キイス様。私の技術が未熟故に貴方まで巻き込む所でした」
「巻き込む? ああ、くそっ、なんだこれ。止まんねぇっ!」
キイスは乱暴に目元を擦る。
「ともかく、お二人とも大事無いようで……本当によかった……」
彼女は心から安堵したように微笑む。彼女も泣きそうな顔をしていた。
「……カリアが言っていた封印とやらが成功したってことだな?」
「はい、その通りです。キイス様のおかげです」
「シェンは? あいつはどうなった?」
「決着はついたようですが………」
気配に気付くのと、茂みの音に気付くのはほぼ同時のことだった。
シェンリィスが重い足取りでこちらに近づいてくるのが見える。自分の血なのか相手の血なのか、血にまみれた彼は顔を上げてホッとしたように笑う。
「シェンっ!」
自分に縋って泣いていたクウルが弾かれたようにシェンリィスに向かって駆け出す。
「お前、怪我だら……」
「向こうで……」
クウルの言葉を遮るようにシェンリィスが声を漏らす。小さなクウルの身体に倒れかかりながらも彼は言葉を繋ぐ。
「倒れてる、アグラムを………助けて、あげて」
「シェン?」
「……僕は、彼を……もう誰も、失いたくない」
それは世界を憎むような悲痛な叫びのようだった。
七章『地に墜ちて芽吹くもの』 終
八章へ続く