4
「……っ……ぁっ」
水を飲み込んでいたのと腹部への衝撃で水面に顔を出すと同時にシェンリィスは咳き込んだ。喉の奥から飲み込んだ水が荒っぽく飛び出してくる。涙も出てきたが、全身がぬれているためにどこまでが涙なのか分からなかった。
涙と水で歪む目を荒く擦り、シェンリィスは辺りを睥睨するように視線を廻らせた。
正気を失ったクウルを戻すためにリトの力を発動させようとした瞬間、クウルに拒まれた。あれは確かに正気の彼の顔だ。ならば言葉が届かない訳ではない。一刻も早くクウルに戦いを辞めるよう説得しなければならない。
視線の中で焔の竜と黄金色に輝く子供が激しくぶつかり合っているのが見える。薄い膜が少年の背に翼のような形を作上げ始めてていた。竜の丈夫な翼ではなく、鳥の羽か虫の翅のように柔らかく柔軟な印象を抱く。片手は少年のものとは違う巨大な黄金色の腕のような形に変化していた。
今まで失っていた竜の形を急激に取り戻し始めているという風に見える。生まれてから一度も竜にならなかった分、本人に制御出来るか分からないほどの魔力を備えたままで。
「止め……ないと……」
戦いを止めなければいけない。
このままでは二人ともただでは済まないだろう。
自分を励ましてくれた優しい子竜も、いつもぶつかり合っていた気性の荒いあの竜も、どちらも失いたくない。
この戦いを止めなければならない理由はそれだけではない。
本来竜は竜の形で生まれ、少しずつ人の形を覚えていく。歩いたり言葉を話すのと同じようにゆっくりと学び自然に身に付くものだ。それが突然目覚めたというのなら彼に自分の力が制御仕切れるとは思えない。まして今の彼の魔力は普通ではない。正気であるとはいえ暴走させてしまえば取り返しのつかないことになってしまう。
「シェン!」
声にはっとして視線を真上に向ける。
見えたのは鈍色の大きな翼だった。大きく張られた力強い翼が誰のものであるのかすぐに想像が付く。脳裏に浮かんだ通りの人物が、カリアを肩の上に載せて急降下して来た。
恵まれた体格。戦士の強さ。
援軍がこれだけ力強く感じたのはどれくらい振りだろうか。
「キイスさん!」
「どういう事だ? 何があった? 何でクウルが竜と戦ってるんだ!? つか、あの魔力は何だ! どっちも尋常じゃねぇぞ!?」
矢継ぎ早に問われシェンリィスは分からないと首を振る。答えられるほど分かる事がない。突然彼が力を暴走させたように見えた。黄金色の膜を靡かせて。
魔力を身体に纏わせ浮き上がるように水から出るとシェンリィスも翼を広げる。
「止めなきゃいけないのだけは……確かです」
呼吸が荒くなったまま戻らない。
緊張や戦闘による消耗だけではない。
身体から感じる魔力が酷く薄くなったように感じる。呼吸がちゃんと出来ているのに息苦しい。
クウルのあの力は危険だ。
彼自身には勿論のこと、谷にも影響を及ぼす強い力なのだと本能が悟っている。このままでは何匹もの竜が狂う結果になりかねない。
「キイス様、私を湖の淵に下ろして下さい。シェンさんの仰るとおりクウル様をお止めしなければなりません」
「どうする気だ?」
キイスは少し飛ぶとカリアをふわりと淵に下ろす。
カリアは杖を具現化させ、大地に突き立てた。杖の先に付けられた金属がぶつかり合って涼やかな音をたてる。
辺りに薄色の魔力が集まってくる。
「今の谷にはクウル様の力を受け止められるほど余力はありません。お小さいクウル様にも制御するだけの力はありません。クウル様の力を一時的に封じる陣を描きます。お二人はどうかここへクウル様を」
一瞬で物事を理解したという口調に、シェンリィスは怪訝そうに見返した。
状況判断が的確すぎる。頭のいい人という印象はあったが、はじめからこうなるのが分かっているかのようだった。
「力ずくであの魔力を封印しようってのかよ?」
「その通りです」
「おい、それじゃあクウルよりお前の方がずっと危険になるじゃねぇか。竜の力を、しかもあんな膨大な魔力ただじゃ済まねぇだろ! お前が欠けても意味ねぇっていっただろうがっ!」
聞いているだけのシェンリィスが竦みそうな程の大声で怒鳴られるが、カリアは冷静な表情でキイスを見返した。
薄色の魔力はどんどんと彼女の周りに集まっている。
「今の状態でいるよいずっと安全です」
「だからってお前……っ」
「カリアさんは何か知っているんですか?」
この異常な魔力の正体を。
彼の身に何が起きているのかを。
カリアは少し顔を顰めて頷いた。
「知っています。ですが、今はそれを話している時ではありません。アルハが命をかけて守ったクウル様をこんな形で失うわけにはいきません。私はアルハとの約束とクウル様をお守りしたいのです」
「………」
キイスは暫くカリアを睨むように見つめた。
カリアは怖じもせずただ彼を見返す
やがて絞り出すような声でキイスが問う。
「……あいつらの戦いを止め、馬鹿弟をここに連れてくればいいんだな?」
「はい。お願いします」
「分かった任せろ。シェン、俺が時間稼いでいる間にお前はクウルを引きはがせ。あっちのは俺が……」
シェンリィスは首を振る。
「逆だよ、キイスさん」
「逆?」
「アグラムの翼が少し濁ってる。あれを止められるのは僕しかいない」
「何だそれは。お前記憶が……」
彼の質問に上の様子を観察したまま答える。
「全部じゃないけれど」
正確な位置を確認すると、シェンリィスは翼をはばたかせぶつかり合う彼らの元へと向かって急上昇していく。
息苦しい。
まるで空気の中で溺れているかのようだ。
近づくたびに息苦しく感じる。自分の魔力が薄くなったように感じる。けれど、実際に薄くなった訳ではない。場に満ちる魔力が増しているのだ。だから自分の中にある魔力が弱く感じる。
そうさせているのはクウルから溢れ出ている黄金色の光。濃厚な魔力の波。
(おいで、僕の指先)
心の中で呼びかけると良く馴染んだ剣の気配が現れた。
高く上りながらシェンリィスはその剣を掴む。剣は辺りの魔力を吸い込み急激に肥大していく。
自分の指先から作られただけあって自分に良く似ている。強欲で傲慢で我が儘な剣。だからこそ安心して相棒でいられる。
「アグラムっっ!」
吠えるような叫び声を上げて、シェンリィスは彼に向かって剣を構えた。