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その時、シェンリィスの目映った少年の姿は完全に気を狂わせている竜と同じだった。黄金色の膜を身に纏い、ただ目の前の男を殺そうとしているようにだけ見えた。
不可解なほどの強さ。
戦士でもない少年が出来る動きではない。ただ竜の本能に従って動いているのだ。それは彼が持って生まれた天賦の才能というよりは、黄金色の力が彼を動かしているのだろう。
(……止めなきゃ)
シェンリィスは翼を広げた。
レミアスの竜は二対の翼を持って生まれることが多い。けれど、多くの竜は一対が退化して殆ど使い物にならない。よく観察をしなければ翼が二対あることも気付かないほど小さい竜も多い。レミアスでは退化して翼が小さいほど強い竜の証とさえ言われている。実際、強いと言われる戦士達は一対の翼が小さかった。
シェンリィスの翼は二対とも大きく、しなやかで丈夫だ。兄妹達がシェンリィスを軽んじていたのはその翼が原因の一つでもあるだろう。二対の翼でシェンリィスは誰よりも飛ぶのが巧かった。けれど、巧く飛べることはレミアスの戦士にとって逃げ回ることが得意なだけの臆病者の証。
褒めてくれるのはレシエだけだったと思う。その大きな翼が好きだと言ってくれた。そうして自分を認めてくれる彼女が嬉しくて、同時に劣等感を煽った。その感情は薄暗く燻り、自分の奥底にあるものをさらに凶暴にした。
自分の翼が小兄のようであれば、自分が小兄を殺そうとすることもなかったのだろう。自分の醜悪さに気付き、嫌悪することもなかった。
それでも、かつての竜王はこの翼を芸術品のように綺麗だと褒めた。四枚の翼を羽ばたかせ誰よりも速く高く舞い上がれる。自分の得た飛翔の号はむしろシェンリィスのためにあるのだろうとさえ言う。異界育ちの竜王はそういった偏見などない竜だった。だからこそ、お世辞でも励ましでもない純粋な言葉で褒めることが出来たのだ。あの時一瞬でも侮蔑や憐れみの色が混じっていたなら、自分は竜王をそれ以上のものとして見れなかっただろう。そして自分の翼を嫌悪し続けた。
(飛べる。僕は、誰よりも早く)
あの時からこの櫨色の翼が誇らしくなった。
そして今、この翼で生まれたことを感謝している。
(クーを止めないと。僕はアグラムを死なせたくない)
失いたくない。
いつか戦って殺さなければならない相手だというのは分かる。あの強い竜を、悪夢の力を持った竜を殺せるのは自分をおいて他にいない。逆もまた真実なら戦いは避けて通れないことだろう。
けれど苦しい。
記憶を消し去ってしまわなければ、立っている事も出来ないほど苦しかった。
(でも、忘れられる訳がない。……僕は、彼の手のひらの暖かさを覚えている)
大地を蹴り上げ、シェンリィスは高く舞い上がった。
加速し、上空でぶつかり合う彼らに近づくたび、柔らかい人の肌が強靱な竜のものへと変化していくのがわかる。人であったものが剥がれ落ち、新たに竜の自分が精製されるような感覚。大きさも性質も全く異なる別の生き物に生まれ変わるような不思議な感覚がある。人である時は人の姿が自然だと感じる。竜である時は竜である姿が本来の姿のようにも感じる。生まれる時と死ぬ時は竜の姿なのだから竜であるのが自然だと言う者もいれば、殆どの竜が人生の大半を人の姿で過ごすのだから人の姿が本来の姿だと言う者もある。どちらも正しく、間違っていると思う。人であるシェンリィスも、竜であるシェンリィスも結局は同じものだ。
何も変わらない。
唸るような声を上げてシェンリィスは戦渦の中へ突入した。
番え放たれた矢よりも速く、真っ直ぐ高く。周りの風を巻き込み彼らの間を切り裂くように通過する。
翼を広げていたものの、竜として完全体になっていないアグラムは突然の竜の襲撃に危険を感じたのだろう。少年を突き放すようにしながら竜の巨体をかわした。
クウルはアグラムに押しのけられる形でのけぞり、シェンリィスの巻き起こした風に煽られ少し後方に飛ぶ。なおも立て直し攻撃しようとする少年をシェンリィスの前足が捉える。彼を包む金色の光がまるで彼に直接触れさせないかとするように激しく輝いた。少年は掴まれても暴れたりもがいたりすることはない。ただ全身が拒絶しているかのようだった。強靱なはずの竜の身体が引き裂かれるかのような痛みを感じる。構わずシェンリィスは少年を掴み続ける。
「邪魔すんじゃねぇ、シェンリィスっっ!」
怒り狂って叫ぶアグラムを一瞥し、シェンリィスは激しく咆吼した。爆音のような声が衝撃波となりアグラムを吹き飛ばす。
戦士ではない竜にならばともかく彼には大した攻撃にはならない。けれどそれは僅かであるが確実に彼の隙を作った。
前足で少年を掴んだままシェンリィスは身体をよじらせ方向を転じる。
どうすればいいのか分からない。黄金竜など相手にしたこともなければ伝説程度にしか知らない。そんなものをどうして良いのか分からない。
ただ彼が黄金竜ではないとしたら、或いは黄金竜として目覚めていないのなら、彼を正気に戻せばいいことだ。
無理だと言われても諦めたくない。今までだって運命と知りながらも抗い続けてきた。竜王アスカが負った運命も、赤妃が負った運命も、自分たちが負った運命も。回避出来る方法を探し模索し続けたのはシェンリィスが我が儘だったからだ。けれど、そんな我が儘な竜をリトに選び挙げ句竜王候補に選んだのも世界だ。
(だったら通す。無理にでも、道理を曲げてでも)
シェンリィスは鋭く風を割いて飛びながら辺りを見回す。
視界の端でちらりと輝くのは湖の湖面に映り込んだ太陽の光。自分たちを追いかけるアグラムの気配も近い。シェンリィスはただ一握の望みのために湖に向かって飛ぶ。二対の羽根をせわしく動かし大気の力を利用しながら空を泳ぐように巧みに飛ぶ。
湖が近づき、シェンリィスはその身体を急降下させる。
水面が近づく。
少年の身体を叩きつけるようにシェンリィスは腕を伸ばした。
衝撃とほぼ同時にシェンリィスは人の姿に戻る。竜の巨体が跳ね上げた水が柱となり、自らに降り注ぐのを感じながら少年と共に水の中へと潜る。
今まで少年を掴んでいた腕は細く頼りない人のものに戻っている。彼を覆う黄金色の膜はその手を拒まなかった。シェンリィスの手が少年の手首を掴むと、膜はシェンリィスの身体さえも覆い込もうとするように広がる。
少年はぼんやりとした目で自分を見ている。その目が真実自分を見ているのかも分からないほど意識は希薄に見えた。
(……大丈夫、クー、僕が戻すから)
シェンリィスは目を閉じ額に集中しリトの力を発動させた。
自分の身体が彼と一つになるような感覚があった。自分には竜王の力を何倍にも引き延ばす力があった。そして、悪夢の力で濁った翼を元のように綺麗にする力も自分にはある。それと同じ事をすればいい。クウルを、正気を狂わせた黄金色の力を取り込めばいい。
「駄目だよ、シェン」
「………っ!」
シェンリィスは、はっとして目を見開いた。
その声は水の中だというのにはっきりと耳元に届いた。
少年の目が自分を見つめている。
薄暗い水の中でも彼の瞳だけが鮮やかに輝いている。
(統べての根源、始まりと……終わりの………うみ?)
彼がにこりと笑った。
それに気を取られた一瞬だった。自分の腹部にクウルの手が伸ばされたことに気付くのに遅れる。
気付いた時にはシェンリィスは湖の外に向かって押し飛ばされていた。腹部への衝撃に気付いたのもその後だった。きらきらと輝いているのは水飛沫なのか、それともクウルの魔力なのか。
目の奥が熱いのは何故なのか。
何も分からずシェンリィスの身体は宙を舞い、再び水の中へと落下した。