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自分が竜になれないことは‘当たり前’だった。
町で暮らせば竜の姿になる人もそう頻繁に見るわけでもなく、領主城の窓から誰かが遠くを飛んでいる姿を見るか、祭で力比べを見る程度だった。時々大人達に竜の姿を見せて貰ったり背に乗せて貰ったりしたものの、普段の生活は竜の姿でいないのが当たり前である。
竜にならないのとなれないのの違いは実はそんなにないと思う。クウルが生まれた頃には既に亡くなっていたが、飛翔王と呼ばれた先代竜王は‘飛翔’の号を受けながらも滅多に竜の姿にはならなかったという。そんな風に人の姿を敢えて選んで生きている竜もいるのだ。だからそんなに違いはない。
不安があるとすれば、自分のような前例がないこと。不満があるとすれば、兄キイスが何故か責任を感じている事だ。
そう、自分が割り切った当たり前のことで、兄が傷付くのを見るのだけが嫌だった。
それだけだ。
自分が竜の姿になりたい理由。
それだけだったのだ。
それだけだったのに。
「……シェン……駄目……だよ」
痛みと恐怖で涙が出る。
ここで自分は死ぬのかと思った。一度もキイスに竜の姿を見せてやることもなく、ここで殺されるのかと思った。
巣から落ちた鳥は長く生きない。あの時、それを理解しながらも理不尽に奪われた命に激昂した。敵わないと分かりながらも武器を手にあの男に向かって飛び出していった。その無謀な行動は反省するべき事だが、後悔はしていない。結果それで殺されたとしてもなにもせずに後悔するよりよっぽど良いだろうとも思う。
でも。
「こんなこと……だめ」
小さく呟く声は届いていない。
楽しげに笑う男とシェンリィス。興奮しながら武器を交え、互いにその行為を楽しんでいるように見えた。それがじゃれ合っている訳ではなく殺し会いをしているのはすぐに分かった。お互いが望む殺し合い。竜王候補同士の戦い。それを止めていい理由などクウルにはないはずなのだ。
けれど。
「………だめだよ、シェン、だ……め」
シェンリィスを死なせたくない。
その想いは強い。
けれど、それ以上に殺させたくないと思う。
ハイノという竜を殺した後、血まみれで倒れながらも泣き続けたシェンリィス。アグラムという竜を思い出そうとして今にも倒れそうなくらい狼狽していたシェンリィス。自分のことを思い出すのが怖いと泣きながらも、それでもあの時彼は必死に思い出そうとしていた。それだけ、大切な事。
アグラムは自分を襲って、シェンリィスをおびき出そうとした男だ。セイムの腕を切り落とし、地に落ちた雛を踏み殺し、子どもの自分に容赦無く攻撃してきた男だ。今もシェンリィスを殺そうとしている。
それなのに何故か、この男はシェンリィスにとって大切な竜に見える。
殺させちゃいけない。
死なせちゃいけない。
どっちも。
誰も。
(何で……俺、竜になれないんだろ)
子どもの竜に何が出来るのかと問われたら言葉に詰まる。けれど、人の姿で戦っている二人を妨害するくらい出来るはずだ。人の姿の、こんな細い腕と身体では何も出来ない。せめて竜の姿になれれば、
(せめて うみ のちからを)
ふつり、と僅かの間意識が途切れる。
身体の中心が熱く、そして冷たい。
まるで炎と氷が同時に宿ったかのようだった。
(うみのちから せかいの ねもと きんいろの ちから)
自分はそれを見たことがあるはずだ。
広い海。
始まりと終わりの場所。
冥府の混沌。
魔法の海。
古海。
自分は知っているはずだ。あの海は色んなものが溶けあって出来ている。魂も意識も世界の全てのものがあの場所に存在している。そして、あの場所には何も存在しない。全てが存在するからこそあの場所には何もない。
けれど、自分はそこに確かに‘存在していた’のだ。
それを本能が覚えている。
だから、知っている。
海との繋がり方を。
(はじまりと おわりの ばしょ さだめを こえる ちから)
頭の中に広がる光景は広い広い海。
明るくもあり、暗くもある。熱くもあり、冷たくもある。そしてそのどれでもない。永遠にたゆたう不変のもの。矛盾すらも矛盾することなく存在出来る場所。
クウルにはそれが金色の海に見える。
あの大きな剣から引き出した黄金色の力はあの海から受け取ったもの。あの場所を隔てて漠然と広い海に手を伸ばした時、海が自分に渡してきた‘あの時自分が必要とした’最小限の力。
あの海にまだ存在し続ける‘自分’から受け取った自分の本来の力の形。
今はもっと欲しい。
あの力を得れば、目の前にある運命が変わる。自分が死にたくないからじゃない。死にたい訳ではないけれど、それ以上にシェンリィスを守りたいと思う心の方が強い。
もっと力を。
この指先が海に届くのなら。
「 っ!」
クウルは叫び声を上げた。
それは自分のもののはずだったが、自分の声には聞こえなかった。巨大な竜が哮り狂ったような叫び声だった。
ふつり、と意識が途切れる。
先刻よりも長く。
誰かの呼びかけが聞こえたが、応える事はできない。頭の中が温かい液で満たされたかのようにぼんやりとしてうまく物事が考えられない。
竜の嘶く声が聞こえる。
それは先刻の自分の声とおなじもの。
海と繋がった身体に力が無尽蔵に流れ込んでくる。
この力に限りはない。
自分はこの海の力の使い方をよく知っているのだから。
ふわり、と自分の背に翼が生えた感覚がある。大きい、薄い膜のような自分の翼。何よりも丈夫な癖に誰も触れることは出来ないだろう。それを広げればフェリアルト領都そのものを包み込んでしまうほど大きいと感じる。もしかしたら、自分の翼は谷よりもずっと大きいかも知れない。
黄金色の翼。
それはクウルの知っている海と同じ色。