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まさか、と彼女の口が言葉を発せずに動く。
皆まで言わずとも分かるだろう。シェンリィスの他に王侯補に選ばれたのが誰であるのかを。
「……お二人はそのことを知っているのですか?」
「血の匂いを嗅いでいれば違和感を覚えているかもしれないけど、それでも確信出来る程でもないと思うんだ。アグラムの性格を考えれば、確信した時点で行動を開始するでしょ」
「そう……ですね。少なくとも貴方のように私に話を持ちかけてくると思います」
「僕は真っ先に僕を殺しに来ると思っているよ。アグラム殺せるの多分僕くらいだから、真っ先に摘みに来ると思う」
「……」
ノアは少し目を伏せる。
彼女にとってアグラムはどんな存在なのだろうと思うことがある。幼い頃、彼女は親を亡くし彷徨っているところをアスカに拾われている。シェンリィスがコラルに来るよりも少し前の話だ。その頃既にアグラムがアスカの近くにいた。ノアは以前自分の初恋に関し‘恋心を自覚する前に失恋が決まっていた相手’と話した。恐らくアスカの事なのだろう。ではアグラムのことはどうなのだろうか。
幼い頃、自分とアグラムとハイノは仲が良かったと思う。三人で随分危険なことをしていたと思う。言い始めるのは大抵ハイノで、アグラムは挑発されて、シェンリィスは頼み込まれて結局付き合うのがいつもだった。そこにノアが加わるのも珍しくなかった。まだ自由に飛び回れないのに付いて来たがって、見かねたアグラムが一番飛ぶのに慣れているからと彼女を背に乗せていた。ノアはアグラムに睨まれるたびに泣き出しそうな顔をしていたが、危険な目に遭って助けられた後、真っ先に飛び込むのはシェンリィスでもハイノでもなくアグラムの胸だった。三人の中で一番ノアに懐かれていたのはアグラムだっただろう。
子どもの頃の距離感とは今は変わってしまったが、それでもノアはアグラムを人一倍信頼しているように思える。
それは信頼出来る兄という意味なのか、別の意味なのかシェンリィスには分からない。彼女にとってアグラムはどんな存在なのだろうと思う。
「ノアに頼みたいことがあるんだ」
「……はい」
「四方将軍の座にアグラムを推薦して欲しいんだ。赤妃様には話してあるし、君の発言力と、アグラムの能力だったら反対意見も少ないと思うから」
「アグラムさんをコラルから追い出すつもりですか?」
シェンリィスは頷く。
「正確には僕から遠ざけたいってのが正しいかな。僕がそうだってまだ確信してほしくない。選定が始まるまで何て贅沢はいわないけど、数年の間、猶予が欲しいんだ」
自分が推薦したらアグラムは違和感を覚えるだろう。他の竜に取っては名誉な四方将軍の名前も、アグラムにとっては行動が制限される面倒な立場でしかない。今までだってその話が浮上しなかったわけではないが彼は拒み続けた。そんな立場に追いやるのがシェンリィスならアグラムは簡単に頷かないだろう。けれどノアの推薦であれば何か事情があるのだと勝手に勘違いをして、渋々ながらも四方将軍の座に納まってくれるだろう。
時間稼ぎには丁度良い。
「……何をされるおつもりですか?」
「調べ物と人捜し、あとアグラムが選定まで他の竜候補に手を出しにくくさせるつもり。僕は長期間赤妃様の側を離れる訳にいかないから、人捜しの方は大変だろうけど」
「探し人は竜賢人様のことですか?」
そう、と頷く。
サジャ・ルネール。随分と前に失踪して以降その姿を隠し続けている賢者だ。様々な術に通じ、様々な知識を持つとされている。代々ルネール領主がその名と知識を引き継ぎ、その知識を守り続けている。竜賢人なら或いは運命を変える手段を知っているかもしれない。
「アグラムさんにも協力をお願いしてはどうでしょうか。話して分からない方じゃありません」
「普通の竜ならともかく、竜賢人を捜すのに、正しい手段だけでやれると思う? そんなことしてアグラムが黙っていると思う? 赤妃様にも負担を強いる事になるんだ」
「………」
「我が儘なのはわかってるんだ。宿命ってものがそう簡単に変わる訳がないことも。でも、僕は陛下の時みたいに悔しい想いをしたくない。僕が今までの例にないなら、変えようと思う」
「………」
「そのためには危険でも出来る限りのことはしなきゃいけないと思う。リトである僕がいち早く確信出来た理由があるとすればそれだと思う。勿論、その時になったら覚悟を決めなきゃいけないんだろうけど」
自分で口にして鳥肌が立つ。
「運命を変えることが出来なかったら、僕が竜王になるよ。少なくともアグラムだけはこの手で殺さなきゃいけないと思う。アグラムは竜王には向いてないから」
ノアは曇った表情のまま言う。
「私はアグラムさんは王に足る器だと思っています。……ですが、そういうことではありませんね。性格的な問題でも、能力的な問題のことでもない。あの方の、悪夢の力のせいですね?」
「うん。悪夢の力は王の力と矛盾する力だよ。一度でも王の仕事をすれば一気にあの翼は濁る。僕はその悪夢を止められる手段がある。でも、彼が王になった時には僕はいない」
シェンリィスが死んだ後、アグラムがシェンリィスを喰らえば、或いはその能力を得られるかも知れないが、そんなのは可能性の極めて低い危険な賭だ。アスカ王が守って来た谷を、今も赤妃が支え続ける谷を、友人を殺したくないという自分の我が儘で危険に晒すつもりはない。既に一度後悔しているからなおのこと。
「……わかりました。何とかしてみます。ですが、選定が始まれば私は候補の誰か一人に肩入れすることは出来ません。回避する事が貴方の目的だったとしてもです」
「うん、分かってるよ。……変なことお願いしてごめんね」
「いいえ」
彼女は首を振る。
「私も可能性があるのなら賭けてみたいです。竜賢人様が一度でも能力を使って下されば私が関知出来るかも知れません。私も何か方法があるか探ってみます」
※ ※ ※ ※
あれから、幾度の後悔の上に今があるのだろう。
結局自分は届かなかった。
判断を間違えた。
間に合わなかった。
気付かなかった。
大切なものを犠牲にしてしまった。
それでも、届きそうな希望を諦め切れなかった。焦って手を伸ばし判断を誤ったのは自分だ。それでも、自分はまだ、死んでいない。
死ねない。
せめて彼を殺すまでは。
(……雨……いつから降っていたっけ?)
身体中が痛い。最早どこが痛いのかも分からない。指先も動かない。
(僕は……アグラムと会って……)
激しい雨が地面を叩きつけ泥を跳ね上がらせる。この泥に沈んで溺れてしまえばもうこんな気分にならずに済むのだろう。
それでも駄目だと頭の奥の理性が囁く。
この期に及んでも逃げ腰の自分を叱咤するように死ぬわけにはいかないと脳裏で繰り返す。
(駄目)
目元を伝うのは雨粒だろうか。
(……やっぱり、彼を殺したくない)
誰も犠牲にしたくない。
それでも、殺さなければいけない。それが、今自分が出来る最上のことだから。
(苦しい……)
張り裂けそうだった。
何故自分は感情のない人形ではなかったのだろう。
どうして一番の好機に、感情を思い出してしまうのだろう。
「苦しい?」
誰かの声が聞こえたが、顔を上げられなかった。
「……忘れて良いよ。君にとって記憶が不都合なら、僕が消してあげる。君が約束を守ってくれたなら、約束果たさないとだし」
目元に誰かの手が触れる。
温かい。
けれど、微かに震えている。
「僕は君を怒ってない。母さんにしたことも正しいと思う。でも、そんなこと、思い出さないで良いよ。全部忘れて良い。思い出さなくていい。忘れたいならずっとずっと忘れていていい。君の望まない全ての記憶を僕が消してあげるから」
忘れれば楽だろう。
思い出を全て忘れてしまえば、アグラムを殺すことも躊躇わない。ハイノのことも殺せる。自分に襲いかかってくる相手を倒すだけのことだ。自分の血の本能に従って相手を狩るだけだ。それだけでいい。
それなら、きっと楽に済む。
「……目を閉じて」
温かい手が瞼に触れる。
シェンリィスは目を閉じた。
「つぎに目を開けた時、君は全てを忘れて、楽になるよ。……おやすみ、シェンリィス」
第六章 了