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飛翔王崩御の報せが谷全土に駆けていったのは三ヶ月ほど前になる。近年では稀に見るほどの善政王であったが故に人々の悲しみは深く、同時に彼を讃える声が各地に広がっていた。
コラル城内はあれからずっと慌ただしかった。
星読み達は事前に飛翔王の死を読むことが出来ず、新たな王の選定の議を進められずにいたのだ。星読み達が何度星を読んでも王の星はアスカの元にあり、王候補の気配を感じることも出来ずにいた。故にアスカはまだ死んでいないのではないかという憶測や、誰かがアスカを殺したのではないかという疑念が城内を渦巻いていた。実際、葬儀に使われたアスカ王の棺の中は空である。城内の誰一人として‘王の死’を目撃した者はいない。
やがて赤妃を王とした仮朝が立った。
錆赤暦の始まりである。
赤妃はアスカから王の力の全てを引き継いだと宣言をし、玉座に新たな王が座った。アスカ王の時代からの四方将軍は彼女に従い、竜王の左右の翼と呼ばれた戦士も、竜王の戦士達も彼女に頭を垂れた。戦いも経験していない王が玉座に付くことになることを快く思わない竜も多かったが、コラル周辺で大きな混乱が起こらなかったのはこのためである。
とはいえ、新しく出来た王朝が安定するにはもう少し時間が掛かるだろう。
シェンリィスは今は別の主が座る玉座を撫でて息を吐いた。
「真夜中にこんな所に私を呼び出して、どうしたんですか?」
落ち着いた声で呼びかけられ、シェンリィスは振り向く。
よく見知った人の姿。血の繋がりなんて無いのに、黒い髪がどことなくアスカを思い出させる。
「こんな時間にごめんね、ノア」
「構いませんが、こんな所でこんな時間に貴方と逢瀬など、私の親友が聞いたら嫉妬で友人の縁を切られてしまうかもしれませんね」
「うん、だから、ここだったんだよ。レシエはここに近づこうとしないから」
笑って言うと、ノアもまたくすりと笑いを漏らす。
レシエだけではない。警備の者でない限り真夜中に玉座の間になんか近づかない。そもそも用が無ければ気軽に来る場所でもない。時間を少し変えて向かえば、誰にも気取られず密に合うことが出来る。部屋に呼んで見咎められるよりもよほど良い場所だろう。
「君に確認したいことがあるんだけど、いいかな?」
「改まって何ですか?」
「えっと、言葉を選ぶと失敗しそうだから単刀直入に言うよ。君の匂いを嗅がせて欲しいんだ」
相手を間違えば勘違いをされるか軽蔑されるような言葉だったが、ノアは顔色を変えなかった。
手を正面で組んでシェンリィスを見上げる。
「貴方がそんなことを仰るということは、何かよほどの事情があるのですね? まさか、恋仲になりそうなレシエをさしおいて、妹同然の私に欲情したとか言いませんよね?」
「よ、欲情って……」
彼女の口から聞くとは思わなかった言葉にシェンリィスの方が赤くなる。
「……そ、そういう物言い、アグラムそっくりだね」
「長い間共に生活しているのですから、似るところもあって当然です」
「そう言うところは似なくていいよ。他の人にはあんまり言っちゃ駄目だよ。冗談じゃ済まない人もいるから」
「当然ですよ。そもそも相手がシェンリィスさんでなければ怒って出て行くところでした」
「そ、それはありがとう」
兄妹として多大な信頼を寄せてくれていることに喜ぶべきなのか、全く認識していないのを男として悲しむべきなのか分からず複雑な心境になる。
ノアはシェンリィスにとって妹のようなものだ。故郷にいる同じ親の子という意味での妹たちよりも大切に思っている。幼い頃コラルに入り、アグラムとハイノという友人が出来た。ノアは少し年下で、アグラムに怯えながらも懐いていた。一緒に居ることも多く、いつの間にか彼女を妹として可愛がっていた。今も彼女のことは守るべき妹として認識している。
「それで、私はじっとしていればいいのですか?」
「うん、すぐ終わるからごめんね」
謝ってからノアの首筋に鼻を近づける。
女性特有の甘い香りがして少し照れくさいが、髪の生え際辺りの匂いを嗅いで確かめる。
(……良かった、ノアからは‘あの’匂いがしない)
彼女から離れて、シェンリィスは深く息を吐いた。
「ありがとう、ちょっとほっとした」
「一体何の確認ですか?」
「……ノア、今、僕の未来読める?」
下手な説明をするよりその方が早いだろう。
ノアは虚を突かれたように瞬く。
「未来ですか?」
「うん、見て」
「では、失礼します」
シェンリィスの胸元に手を押し当てて、ノアは目を閉じぐっと集中する。
彼女は星読みだ。少し特別な立場にあるため、他の人には伏せられている。位の高い星読み達と、彼女に近しいほんの僅かな人だけが知る事実。彼女はこうして相手に触れる事で誰よりも高い精度で星を読むことが出来る。そしてその能力をアスカ王の為に使い続けていた。
彼女は目を開き口元を押さえた。
その顔色は暗がりのせいか青ざめて見える。
「そんな………こんな事って……」
「読めた?」
「いいえ、複雑過ぎて私にはとても。ですが、私が読みきれないというのは……」
「うん、まだ赤妃様がいるから軽い兆しでしかないけど」
軽く言うと、彼女は険しい表情でシェンリィスを見上げる。
「……リトが王侯補になった前例などありません」
そんな軽く言う事ではないと咎めるような口調だ。
シェンリィスは優しく諭すように言う。
「王が居なくなって王のリトが生きていたことも、王が生きたまま異界に飲まれたのも、王の力の全でが誰かに引き継がれた前例なんかないよ。そもそも、王候補が異界に飛ばされていた事自体が異常だったんだ」
「………」
ノアは俯いて何か考え込む。
彼女も自分も、他の人には隠されている事実を知っている。アスカは死んだわけではない。時空の狭間に飲まれたのだ。アスカも赤妃も起こることをはじめから知っていた。だから自分たちが居なくてもコラルが機能するように準備を進めていた。本来ならば赤妃はあの場所で消滅するはずだった。竜王の血の加護が消え、精霊である彼女は谷で生きることが出来ない。消滅する時に生じる力を利用し道を開き‘子’を精霊界へと送るのが彼女の最後の仕事だった。
けれど、アグラムはそれを良しとしなかった。彼らしか知り得ない情報をシェンリィスに流すことで、リトを味方に付け、彼女が消滅せずに済む方法を編み出した。それは或いはアスカ自身の望みだったのかもしれない。死んでいなければ逢える機会が来るかも知れない、それが彼の言葉だ。
リトの力で王の力を写し取り、赤妃に渡すことで彼女は消滅を免れたが、今どの程度彼女が竜であるのか精霊であるのか、王の力をどの程度持っているのか、何も分からない。ただ、少なからず彼女は谷を治める力を持っている。星読み達が新たな王侯補を選定出来ずにいるのはそのためなのだ。
「……自分がそうであると、何故お気づきになったのですか? 現段階ではその血の匂いの変化も些細なはず」
「僕はリトだから他の人より敏感だったのかもしれない。……このコラル城内に、血の匂いの変化した人が何人かいる。まだ僕でも血が流れるか本当に近づかないと分からない位だけど」
「私は違いましたか?」
微笑んで頷く。
「うん。レシエも違う」
彼女までそうでなくて本当によかったと思う。
「まさか、今のように確認されたのですか?」
シェンリィスは気恥ずかしくなって視線を逸らす。
「えーと、覚悟してたけど、陛下が居なくなられてから色々落ち込んでいて……レシエが良いって言うから、つい……」
「呆れました。レシエが少し浮かれていたからどうしたのかと思ったら……」
「えっ、浮かれてたの? ……まずいなぁ」
その様子が目に浮かんで覚えず口元を押さえると、ノアはじっとりと睨む。
「ご自分で招いた事なのにまずいってどういう事ですか」
「だって、変なことした訳じゃなくて、その……少し、肩を借りただけだよ?」
本当にそれだけのことだ。
良くないとは分かっていたが近くにいたのがレシエだったから軽く肩を借りただけ。それ以上のことをしたわけではない。シェンリィスがレシエを受け入れないのは彼女も分かっている事のはずだ。けれど、期待させてしまったのならまずいと思う。
「その程度だって事は分かっていますよ。貴方に限ってその場の感情に流されて手を出すとは思えませんから。……ですが、長年片思いし続けたレシエの乙女心を舐めてはいけません。貴方の知らないところで貴方の些細な言動で一喜一憂している子ですよ?」
「うわぁ、気を付けないと……」
「本当に、彼女の事を受け入れてあげたらどうですか? こんな言い方は酷かもしれませんが、貴方にはもう最優先にすべき人はいない。王侯補になり、王になればあの子の事も……」
シェンリィスは首を振る。
「だから尚更なんだ」
「まさか戦って死ぬおつもりですか?」
「そうじゃないよ。想像していたよりずっと今は落ち着いているから、あんな馬鹿なことをしでかしたのが恥ずかしいくらい。……でも、無事で居られると思ってない」
言葉を探すようにノアは少し沈黙をした。
王侯補同士の戦いが、言葉で示すよりもずっと辛く危険なことを彼女は分かっているのだろう。自分のような性格の竜なら尚更だ。
「シェンリィスさんは強いですよ」
彼女は励ますように言う。
シェンリィスは微笑んだ。
彼女の気遣いが嬉しい反面、これから彼女に真実を告げるのが酷な事のように思えてならない。
どちらにても、彼女はきっと知ってしまうのだろうけれど。
「僕はね、戦って勝ち残れないって思ってないよ。先王陛下ならともかく僕は簡単に討ち取られるなんて思っていないから」
「なら……」
そうじゃないと、左右に首を振る。
「僕は、アグラムやハイノを殺したくない」