3
「シェンリィス、御主とわしが最初に会うた時のことを覚えているかね?」
優しい声で尋ねられ、彼は頷く。
「……貴方は、僕に手を差し伸べて下さいました。父も兄弟も僕すらも理解しなかった僕自身に」
「それが間違っておったとは思わぬ。そうしなければいつか自ら命を絶ってしまうようにさえ見えた。御主は御主自身の能力と性質を嫌悪しつつ、戦いへの渇望を諦めきれてはいなかった」
その通りだと思う。
その頃アスカは子どもの竜を集めていた。自分の手足となる戦士を育てていると彼は言った。そこにシェンリィスは加わった。集められた子ども達の大半は孤児であり、竜王は戦士を育てるという名目で彼らを保護したかったというのはすぐに分かった。そして同時に戦士を本当に必要としているのも分かった。
竜王は争いを真実望まない子ども達を無理に戦場に出すことはしなかった。集められた子ども達の中で戦士として残ったのも一握りだけだった。あとは一人でも生きていける年頃になった頃‘才覚がない’と城から追い出している。彼らの望む生き方が出来るよう最大限の援助をした上で。
残った僅かの中にシェンリィスもいる。
それはシェンリィス自身が望んだことだ。他の竜と命の取り合いをするのは嫌だ。仲間を傷つけるのは嫌だ。
けれど、シェンリィスは戦いを渇望している。
嫌悪しながらも、誰よりも強く望んでいる。
「レシエを思えば少し済まぬ事をしたのかもしれぬな」
「……陛下がお気に掛けられる程のことでもありません」
拒絶の意味ではない。ただ、この人がそんなことを気に掛けてくれるのが嬉しくて悲しい。
「わしはシィナと伴侶になり少々厄介な因果を背負いはしたが、後悔をしたことはない。今もこうして平穏な世界を見ていられるのは幸福と思っておる。御主にも心の安寧となる者がおっても良いと思ったのじゃがのう」
「僕にはレシエを幸せに出来ません。他の誰かが……ハイノみたいに優しい人が娶って幸せにしてくれればと思います。知ってますか? 最近あの二人仲がいいんですよ。僕の悪口なんていう共通の話題があるから」
シェンリィスはくすくすと声を立てて笑う。
「あの二人が幸せになるなら、僕は嬉しい」
それは心から思う事だ。
大切な人たち。
その人達が幸せになれるのなら自分がその輪の中にいなくても嬉しい。
「……わしが命じたら御主はどうするつもりじゃ?」
「レシエと一緒になるように、ですか?」
アスカらしくない質問だと思う。この人は皆に命令し従わせるだけの権利がある。アスカの命令ならば何でもするという者も多いだろう。けれど彼はそう言った権限をあまり使いたがらない。先刻自分に休むように言った時のような諭すような命令をすることはある。有事になれば毅然とした態度で軍を指揮する。それでも、信念を命令で曲げさせる事や無理難題を押しつけることを嫌う。
だからこそ、その意図が分かる。
シェンリィスは息を吐いてアスカに微笑みかけた。
「‘貴方の命令’なら、僕は従います。僕は貴方の為のものです」
「……そうか」
彼は目を閉じ息を吐いた。
「すまぬ、少々意地悪な質問じゃった」
「いいえ、ありがとうございます」
こういう優しさは彼が異界育ちだからだろうか。子どもの頃、優しくない大人ばかりを見てきた為に彼ほど優しい大人をシェンリィスは知らない。
この王が異界で育ったことは誰もが知っている。それでもそこがどんな国であったのか知るものは少ない。異界の小さな島国‘ニホン’は平和な国だったという。血の繋がりのない彼を養子として受け入れてくれた家は裕福な家計であり、家族にも、友人にも恵まれ、その才覚から未来も嘱望されていた。
けれど彼はそれらに別れを告げる間もなく、竜の谷に連れてこられ、殺しあいをして王になるようにと言われた。
この世界を憎んでも良かっただろう。それまで大切だった全てを奪われ、彼は世界を恨んでも良かったはずだ。
けれ彼はこの世界のために負担を強いられても、この世界を守っている。
「僕は、陛下が気にされるほどの竜じゃありません」
「御主は優しいよ」
「いいえ、僕は、自分の心の醜さを知っています。……僕は、心のどこかで黄金竜が世界を終わらせる事を望んでいるのだから」
一瞬アスカが言葉を詰まらせた。
黄金竜は混沌と混じり合った最古の竜。
その存在が姿を現す時は全ての界が変革期を迎えると言われている。世界は根本から造り替えられ、全てが終わる。アスカが必死に支えていることも、自分がその手助けをしていることも全てが無駄になる。
「僕は多分この世界のこと、そんなに好きじゃないんです。誰かが犠牲にならなきゃ成り立たない世界なんて間違ってる。……谷の人たちが当たり前に生活している風景を壊したいとか思っている訳じゃありません。守りたいと思っています。でも、一瞬にして世界が終われば僕は見たくないものを見なくてもいい。時々そう思ってしまうんです。……僕はそう言う自分の醜さを知ってます」
直視出来ないものから目を背けて生きたい。
レシエの事も、考えれば考えるほど心が潰れそうになる。だから遠ざけたい。一緒になって自分が早く命を落とすことになっても、彼女は泣いて喚いて、いつかは自分の足で歩いていこうとするだろう。けれど、そんな姿を想像したくない。心が苦しい事を遠ざけたい。
自分が傷付くのが嫌なだけだ。
最良の選択をする振りをして、ただ逃げている。
「シェンリィスは優しい子じゃ。誰かが世界の犠牲になることが許せず、意地の悪い世界を嫌っておる。……それは優しさだとわしは思う」
「自分勝手なだけです。潔癖で、矛盾だらけで、嫌になる……っ」
ぎゅっと握りしめたグラスが小さく軋んだ音を立てる。
醜く愚かな自分が許せない。
大切な人の為に谷を守りたいと思いながらも、こんなにも苦しいのであればこの世界など一瞬で滅んでしまえばいいのにとも思う。何も知らず当たり前の顔で笑って生活している人たちが許せない。けれど、その当たり前を守りたいとも思う。
矛盾している。
守ってきたものも、自分の手で壊してしまいたくなるような衝動が怖い。自分の本性が怖い。
「矛盾のない者などおらんよ。そしてどちらも真実であれば、矛盾はしない」
「………」
優しげな言葉にシェンリィスは何も応えられなかった。
微かにアスカが笑いを漏らす。
「……わしも世界を憎んだ事があるよ」
驚いて顔を上げると、アスカは少し目を閉じた。
「この世界に連れ戻され戻れなくなった時、恨めるものが世界そのものしかなかった。だから憎んだ。今も故郷のことを想えば複雑な気持ちになることもある」
「それでも、貴方は世界を守っている……」
「世界はわしから多くを奪ったが、シィナにアァクに御主達……大切なものを沢山与えてくれた。大切なものが一つでもあるのなら、世界は守るべきものだとおもうておるよ」
アスカは優しい顔でアァクの真っ白な髪を撫でる。
アァクがくすぐったそうに目を細めた。
「この子が生まれた時、黄金竜であるかと思ったことがある。白竜は時に性質の定まらない竜である故、いずれ黄金竜の力を得ると」
「それはないよ。僕は万里だから、流れることがない黄金竜には触れることもできないもん」
アァクの言葉にアスカは笑う。
「だ、そうだ」
「よく……わかりません」
「黄金竜は世界の根底で、不変であり続ける者。万里は流れ形を変え永遠を生き続ける。どちらも永久だけど性質が違うから混じり合うことはないってこと。まぁ、黄金竜は厳密に言えば不変ってわけじゃないんだけど……」
にこにこと笑いながらアァクは説明を加える。
ますます混乱するが、アスカは先を進める。
「黄金竜が現世に現れれば世界は変革期を迎える。……何が起こるのかは誰にも分からぬ。或いは何も起こらぬ事もあり得る。それでも、わしらの子であれば世界に無体な事はせぬと淡い期待をしたものじゃ。だが、この子に黄金竜の本質を聞かされれば、アァクでなくて良かったと思うよ」
「黄金竜の、本質?」
質問にはアァクが答える。
「黄金竜が現れれば世界を変える事が出来る。この谷も、王が犠牲になって支える必要もなくなるんだろうね。……でも、危険なんだ。一歩間違えれば世界が終わってしまう。あの存在は、絶望と紙一重の希望なんだろうなって思う」
「希望……」
不意に夢の中で彼が言った言葉を思い出す。
希望の欠片が芽吹かない。
あれは黄金竜の事だったのだろうか。自分が命を絶った後の未来では、黄金竜が生まれない、そういう意味だろうか。そうだとしたら未来生まれる自分の子どもが黄金竜と言うことにはならないだろうか。
そこまで考えかけて、シェンリィスは頭の中で否定する。
(……夢で見たことを真剣に考えるなんて馬鹿げてる。僕には星見の才能なんてないんだから、あれは夢なのに)
それでもただの夢と思えなかったのは、夢の中のアァクが辛そうだったからだろうか。
この天真爛漫な彼のあんな表情は見たことが無かった。
「僕には、あの存在の負荷に耐えられない。……というか、まともな精神を持っている人なら耐えられないと思うよ」
「負荷って……力のこと?」
「うーん、それもあるけど、黄金竜は混沌そのものなんだと思う。混沌ってどんなものだって思う?」
「色々が混ざって、区別も付かなくなっている状態だよね?」
「うん、言葉で説明しようと思うとそうだよね。でも、人も、物質も、精神も、時間も、空間も全部混じり合っている状態ってどういうことなんだろう。輪郭も何もなく混じり合っている状態で、何が、何を認識出来るんだろう。何も認識できないっていうなら、何が何も認識出来ないって認識出来るんだろう」
シェンリィスは左右に首を振る。
「よく……分からないよ」
「うん、良く分からないよね。だから、思考出来る生き物には理解出来ない。世界という枠組みの秩序の中で生きている生き物には理解出来ない。黄金竜ってそういうものなんだ。そんなの背負ったら頭の方が先におかしくなって死んじゃうよ。だから、黄金竜が現れたとしても、人らしい思考は出来ない。何が起こるか分からない」
「それで絶望と紙一重の希望……」
うん、と、彼は頷く。
天上を見上げて、夢の中の彼と良く似た表情を浮かべた。
「だから、本当に最後の最後じゃないと望んじゃいけないんだろうなぁ……」