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「……っ」
眩しさを覚えて目を覚ますと、真昼の日差しが部屋に差し込んでいた。開け放たれた窓から風が舞い込み、真っ白なカーテンをなびかせている。
シェンリィスは半身を起こした。不思議なくらい身体が軽い。
自分が倒れてからまだ二晩しか経っていないはずだ。いつもならばもう少し長引くというのに、今日は不思議な程身体の調子がいい。目を閉じたまま予想以上の時間が経過しているのかも知れない。夢か現か、アァクと会話をした記憶もうっすらと残っている。
立ち上がり軽く背伸びをしてから身体の違和感を確かめる。
随分と前に欠損した指以外はどこにも欠損はない。手を握って確認をしても身体の全てが自分の思うように動く。魔力にも違和感は無かった。
(動けそう。午後から仕事に復帰出来そうかな)
寝汗はそれほどかいていないようだ。
シェンリィスは服を脱ぎ丁寧に畳むと掛けてあった新しい衣服に袖を通した。姿見を確認しながら髪を結い、角を覆うように布を巻く。いつも通りの自分の姿がそこにはあった。普段よりもやつれている様子はなく、健康そうだった。
これならば人に心配されずに済むだろう。
黒翔暦は既に二百年を越え、アスカ王即位の前まで大きく荒れていた竜の谷は平穏を取り戻して久しい。はじめの頃はアスカ王を良しとしない者が反乱を起こしていたが、今はもう大きな争い事もない。
この平和が何の犠牲の上で成り立っているのか、知るものは少ない。
コラルの上層にいるほんの一握りの人間だけが知っている事だ。
不意に戸を叩く音が聞こえてシェンリィスは髪に管の飾りを付けながら返事を返す。
「どうぞ」
「あれ、シェンリィス起きてるんだ」
顔を覗かせたのはアァクだった。
ふわふわとした真っ白い髪に、父親譲りの黒い瞳を持つ少年だ。彼は優しげな顔で微笑む。
「身体の調子、どう?」
「もうすっかりいいよ」
「そう、なら良かった。いつもより回復早くてよかったね。陛下も心配していたからさ」
少年はにこりと笑う。
彼は竜王と赤妃の間に生まれた子だ。まだ角の生え替わっていない子どもであり、白竜であることから成竜するまで世間に隠されている子だ。そのため、彼は自分の父親のことを「陛下」と呼び、周囲の者も彼を竜王の子と分からないように戦士として集められた他の子ども達と同じように扱っている。
無論、他の子ども達は彼が‘特別’であることに気付いているようだったが。
(そう言えばあの時‘父さん’って呼んでいたっけ……)
シェンリィスが彼を見つめると彼は首を傾げた。
「なに? どうしたの?」
「アァク、昨日もお見舞いに来てくれたよね?」
彼は首を振る。
「ううん、昨日はまだやめておきなさいって言われてたから。……何で?」
「何でもないよ。ちょっと変な夢を見ただけ」
やはりあれは夢であったのだ。
そういえばあのアァクはもう少し身長が高かったように思える。童顔であったが表情はどこか大人びていて、今の彼とは違う。そう、まるで彼をもう少し成長させたかのような外見だった。
「もしかしてもう仕事に戻るつもり?」
「そうだよ。動けるようになったんだ。僕がいないと陛下のご負担が大きくなる」
「陛下は大丈夫だよ。星読みすら読み違える位の強い人だから。それよりシェンリィスが倒れる頻度が多くなっているのを気にしてる」
気遣うようにアァクがシェンリィスを覗き込んだ。
確かに頻度が多くなっていると思う。正確に言えば、シェンリィスが復帰して倒れるまでの期間が短くなっている。
自分の身体に衰えは感じていない。
ただ、妙に‘あれ’の力が強くなっていると感じている。それは王の戦士達みんなが感じている事だろう。アスカ王自身も。
「僕だってこうやって回復するまで休ませて貰えるから問題はないよ」
「だとしても、無茶をさせていることには変わりあるまい。今日くらい休んでいれば良いものを」
「陛下」
シェンリィスは空けたままになっていた扉の前にいる主に頭を下げる。
鋼のような黒髪と、黒曜石のような瞳を持つ綺麗な竜の号は飛翔王。名をアスカという。異界育ちである故に型破りとも言われる現代の竜王。どこか飄々としてつかみ所のない人物だが、争いを好まない穏和な人物で、人を身分で見ることのない人でもあった。
初めてであったときは竜王であることを疑ったくらいだ。だが、その能力は高く、人の姿のままで竜たちと戦う術を持っている。シェンリィスは彼を師とし、その術を学んできた。
主であり、師であり、父のような存在でもある。
「顔色が良さそうで安心した。……シィナに霊酒を作ってもらったが、少しどうじゃ?」
「赤妃様の……そんな、勿体ない」
「お主の回復の為にと作ったのじゃよ。まさかもう既に回復しているとは想いもよらなんだが」
「午後には仕事に出るつもりです。ですから、赤妃様の霊酒は……」
「今日は休みなさい。わしの命令じゃ」
「は……はい」
有無を言わさない言葉で言われ、シェンリィスは黙り込む。
竜王の伴侶である赤妃は霊酒と呼ばれる酒の製造を得意とする。竜でも心地よく酔わせ、その身体の疲れを癒す。アスカは平気そうに大量に口にしていたが、同じ量をシェンリィスが飲めば暫く昏倒してしまうだろう。だから少量であっても職務中には飲みたくない。
飲めば心地よくなるのは確かなのだが。
アスカは扉を閉めて軽く瓶と小さなグラスを上げてみせる。
「軽く付き合いなさい。……アァクは駄目じゃよ。まだ早い」
「えー」
アァクは口を尖らせる。
「成竜になってからじゃよ。その代わり木イチゴの果実水を持ってきたから、これで我慢できるね?」
「……はぁい」
少し不服そうにしながらも、父親の言うことに頷いた。瓶を受け取って彼はベッドに座る。
シェンリィスも促され、椅子に腰を下ろした。竜王手ずから酒が注がれ、シェンリィスの前に出される。
甘い、心地の良い香りがする。
「今回はそれほど寝込まずに済んだようじゃの」
「すみません、いつもご迷惑をおかけして……」
「人一倍働いているお主が謝るような事ではない。むしろ無茶ばかりさせる。不甲斐ない王ですまぬな」
「そんな」
シェンリィスは首を振る。
竜の谷は平和だ。小さな争い事こそあるものの、安定し、誰もがアスカ王を称えている。
それは当然のことだ。アスカ王即位前には長い空位期があり、その前の王はたった十年で命を落とした短命王だ。この谷の多くの竜が疲弊し、歪んでいる谷しか知らなかった。ここ二百年あまりで急激に復興したように見える谷はアスカ王無くして成り立たない。
故に、誰もが彼を称える。
その実、彼がどれだけの犠牲を払ったのか知るものは少ない。
「僕は竜王様のためにあるものです」
「しかしのぅ……お主とて伴侶を見つけ、子を成しても良い頃じゃ。リトと言うことで気兼ねすることはないのじゃよ」
「そういうの、アグラムにも言ってあげて下さい」
笑って誤魔化すと彼は眉間に皺を寄せる。
「わしも再三言うておるが、奴は自分の伴侶は不幸にしかならないと考えておる。あの悪夢の力ではそう思うのも分からなくもないがのぅ。……そして御主もまた、自分の伴侶は不幸になると考えておる」
「……」
シェンリィスは答えずに霊酒を口にした。
「リトの力は人を不幸にはしないよ。苦労はするとは思うけれど、レシエであれば乗り越えてくれるじゃろう。わしも当分長生きするつもりじゃから」
主の言葉が少し嬉しくてシェンリィスは微笑んだ。
この人は、一番気にしなくていい自分のことさえ、こんなに良く考えてくれている。
「……レシエを嫌っているわけではないのじゃろう?」
シェンリィスは頷く。
「多分、僕は彼女の血で死にます。大切な人だから」
「なれば……」
「……僕は、彼女を大切に思っていますが、彼女の望むようには愛していないと思います。僕はあの子の手を取れません。あの子の事を一番には考えられない。あの子が分かっていたとしても、僕は……それが苦しい」
シェンリィスは顔を覆った。
大切な子だ。
幼い頃、自分が望んで唯一手元に置いていたのだ。優しくて、泣き虫で、引っ込み思案の癖に怒ると誰にでも噛み付くような子。いつも彼女が怒るのはシェンリィスが他の兄妹達から能なしと馬鹿にされた時だった。
馬鹿にされていても良かった。馬鹿にされていたくらいの方がシェンリィスにとって良かったのだ。それでも彼女が力一杯怒って庇ってくれるのが嬉しくて溜まらなかった。彼女はどんなシェンリィスでもありのままに受け入れてくれる。そんな気がしていたからだ。
あのままでも良かったかも知れない。あのまま才能のない子としてレミアス城で過ごし、レシエを娶り、子を育てるのも一つだったのだろう。
けれどアグラムに出会った時、竜王に城に来ないかと誘われた時、レミアス城で一生を送るのは‘何かが足りない’と思った。だから誘われるがまま竜王城に行ったのだ。
竜王の戦士候補生として初めて戦いに赴いた時にその正体に気付いた。