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「現在過去未来で一番不確かな時っていつか分かる?」
少年は窓枠に座り、優しげな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
純白の髪を持つ彼はまだ成竜にもなっていない。体つきも小さく顔立ちも幼い。けれどその身には不釣り合いな程の魔力を有していた。白竜というのはそう言う生き物だった。
竜の身体や瞳の色は加護を受けた色に染まりやすい。鬣の色を見ればその竜がどんな魔法を得意とするかが分かると言われているほど、竜は周囲の魔要素の影響を受けやすい。何の色も持たない彼は何の魔力の影響も受けなければ、あらゆる魔力の影響を受け付ける存在でもある。故に、彼の魔力は子どもの身に余るほど高い。
「……未来、かな?」
掠れる声で呟くように返すと、彼は窓枠から飛び降り部屋の中へと入ってくる。
「そうだね‘今’を生きる人にとってはそれは主観として正しいことだ。でも、違うよ。僕の言う未来っていうのはね、人の将来の話じゃないんだよ。結末のことだ」
「……?」
薄い意識の中でシェンリィスは少し考え込む。
彼は、こんなしゃべり方をしていただろうか。
「終わりから見れば、一番不確かなのは‘今’なんだよ」
「今?」
「そう。……未来はね、この時点から見れば不確かに見える。実際、僕の行動一つで変わるように見える。例えば」
彼はベッドの脇にある花瓶を手に取る。
「僕がこの花瓶を床に落としたら、ほんの数秒先の未来では花瓶は割れている。でも、このまま戻せば花瓶は割れない。そうやって人の選択一つで如何様にも変わる。……でも、誰も終わりという未来を変える事はできないんだ」
意味が分からず首を傾げると、少年は花瓶を元にあった位置に戻す。
彼は笑っていた。
穏やかに。
彼は、いつもこんな笑い方をしていただろうか。
「未来は今の些細な変化をものともしない。こういう言い方をすると君は怒るかも知れないけど、たった一匹の竜の生き死になんて未来にとってはどうでもいいことなんだ」
「……」
どうでもいいこと、と言われて唇を噛む。
自分は夢でも見ているのだろう。
この少年はそんな事を言うような子どもではなかった。幼い子どもの割に達観したような不思議な物言いをする少年だったが、自分を気遣ってくれる優しい子だった。竜の戦士が傷付き倒れることを悲しみ、傷を癒そうとしてくれる存在だ。そんな彼がこんな事を軽々しく口にするわけがない。
嫌な夢だ。
早く醒めて欲しい。
「一匹の竜が生きようが死のうが、未来は‘あるべき姿’に収束する。例え未来に大きく関わるような人物が死んでしまったとしても、世界はその人物がいなくてもあるべき姿になるように書き換えられる。だから今は変わっても、未来は変わらない。終わりは確実に来る。僕はその終わりの日を知っている」
彼は自嘲するように笑う。
その声が、何故だか悲痛な叫び声のように聞こえて泣きたくなった。
どうして悲しいのだろう。
明るいはずの彼の声が、痛々しくて苦しい。
「僕は万里の時を生きる者。絶える事が赦されない、永遠を生きる者」
「……それって、君は死なないってこと?」
彼は首を振る。
「そうだけどちょっと違うかな。この身体はいつか朽ちる。多分、竜としては短命に終わるんじゃないかな。多分、三百まで生きられない」
竜は長命種だ。
種族によって差はあるものの、五百歳以上生きるのが当たり前な竜にとって三百という年齢は若すぎる。戦士として戦っているものであればそれ以下の年齢で死ぬ者もあるが、彼の口ぶりからはそこで命が尽きるかのようだった。
白竜は全ての魔力の影響を受けるため、子どもの頃は酷く弱い存在であり、長く生きられないことが多い。けれど、成竜になり自らの魔力を制御出来るようになれば、白竜は古竜に匹敵するほどの力を持つと言われている。実際、成竜に近くなっている彼の魔力は日に日に高まっている。
(………あれ?)
シェンリィスは眉を顰める。
彼の魔力が妙だ。強くなってきているとはいえ、こんなにも強かっただろうか。
(やっぱり、これは夢なんだ)
良くできた夢。
疲労して倒れた自分が見ている良くない夢だ。
「僕は長くは生きないけど、百億周期の改変が行われて以降の世界を僕は見渡すことが出来る。僕が許容出来る範囲であれば、の話だけれど」
「意味が分からないよ」
「僕は、知ろうと思えば‘万里の存在’として生きて見てきた事を全て思い出すことが出来るんだ。今のこの世界は誰かに歪められている。僕はそれを正すためにいる」
良く分からない、とシェンリィスは首を振る。
その様子に彼は分かっていたとでも言いたげに軽く肩を竦める。
「本来ここで僕と君が話すことは無いはずだった。本来の未来通りに進んでいれば、干渉する余地すら与えられなかった時間なんだ。人の……人っていっていいのか分からないけど、彼らが歪めたから僕はこの時間に関わることが出来る。故にこの時間は起点か、分岐点に当たる時間だと思う。長居は出来ないから手短に言うよ」
少年はシェンリィスを見つめる。
口元には笑みが浮かんでいたが、真剣な眼差しだった。
「君は竜王になるべきだ」
突然言われた言葉に、シェンリィスは瞬く。
「な、何を……? だって、僕は陛下のリトで……王が死ねばリトは……」
「うん」
彼は頷く。
王が死ねばリトは死ぬ。王の為のものであり、役目を果たせば死ぬ。王が居なければリトには意味がない。だから存在する理由がない。
それがシェンリィスが自分がリトであることに気付いて知った事。
悲しいことではない。むしろ嬉しいことだ。あの優しい王の為に出来ることがある。恩を返せる。この谷を支える事が出来る。だから自分がそうだと気付いた時、王は悲しい顔をしたけれど嬉しくてたまらなかった。王が自分の犠牲を求めていないことを知っていても、それでも嬉しい。
自分が竜王になると言うことはアスカ王が死んだ後のことだ。けれど、リトである自分も死ぬ。死んだ者は王になることは出来ない。
矛盾している。
「父さんは多分死ぬことはないと思う。でも、王では居られない時が来るんだ。……本当はこういう事は言っちゃいけないんだけど、どうも今は大丈夫みたいだ。君はその時が来たら絶望して命を絶つ」
「……」
「そう言う流れを経て収束する未来がある。同時に君が王の道を選ぶ事も、最終的に王になれずに死ぬこともある。僕はそう言った経緯をいくつも知っている。でも……」
言って彼は口を閉ざした。
少し笑って頭の後を掻いた。
「ああ、どうも君には話しちゃいけない事柄みたい」
「……?」
「僕は未来を変えたいんだ」
彼は言う。
先刻彼の口から未来は誰にも変えられないと告げられたばかりだ。
「どの道を辿ってもそこで収束してしまうけど、変えられる可能性のある人を僕は知っている。彼らはその存在を望んでいないから世界を歪めてまで消そうとしている。……大昔、100億周期が改訂される前は、未来はそこで収束していた。でも、諦めなかった人がいて、その未来を変えたからこそ今がある。これだけ沢山の人がいて、沢山の想いがあって、変えられない未来があるとは思いたくない。だから僕はここに来たんだ」
彼はベッドに腰を下ろし、シェンリィスの頬に触れる。
冷たいと思う。
自分が熱があるからか、それとも彼の手が冷たいからか。
「お願いだから自分のしたことに絶望しないで。忘れたいなら忘れていい。その時は僕が力を貸してあげるから」
「……僕は何かをするの?」
自分のしたことに絶望するような何かを。
彼は笑うだけで答えなかった。
「竜王になるべきだって僕は言ったけど、竜王にならない選択をしても構わない。でも、君が自ら命を絶った後の未来には希望の欠片が芽吹かない」
「希望の……欠片?」
「酷いことを言っていると思うよ。それに、僕がやっている事は正しくないかもしれない。でも、僕はこの世界のことが大好きなんだ。出来ることがあって見ない振りはできない」
だから、と彼はシェンリィスの耳元に唇を近づける。
子守歌のような、優しい声で彼は囁く。
「……君がこの理不尽な世界を少しでも好きでいてくれたなら、少しだけ世界を助けてあげて」