9
楽しげに歪められた口元。
思い出す、悪夢の記憶。
「駄目だよ、アグラム。これ以上は……っ」
泣きじゃくりながらシェンリィスは少年の服を引いて引き留める。同じくらいの年ごとの少年だった。肌は浅黒く、退紅色の髪をしている。彼は振り返り、引きつった顔でシェンリィスの胸ぐらを掴んだ。
「てめぇ何弱気になってんだよっ! いつもの俺に対する強気はどうしたっ!」
「だって、だって……アグラム、血が……」
少年の腹部には大きな傷があった。流れる血は多く、失われた血が多いことが容易に推測出来た。
これ以上は危ない。
分かっている。
けれど彼は動こうとする。
「はっ、この程度、大したことねぇよ。……てめぇは俺が奴を喰らうのを指くわえて見てろよ」
ばさりと彼の翼が広がる。
退紅色の強く張った膜のような大きな翼。
見慣れた翼。
けれどそれは普段と大きく異なっていることも分かっていた。いつも鮮やかに空を彩る彼の翼の先が、錆びた鉄のように薄暗く濁っている。
「これ以上は駄目だよ、アグラムっ!」
彼は奥歯を噛む。
自分でも分かっているはずだ。限界が近い。
「じゃあ、どうしろってんだよっ! このまま、あれを野放しにするつもりかよっ」
「そうじゃないっ! そうじゃない……けどっ」
くっと、彼が笑う。
「……俺はもう止まる気なんかねぇんだよ」
死と隣り合わせの状況を楽しむようなそんな笑み。
底のない沼のようだ。
黒く、深く、そして、近づいた者全てを否応なしに飲み込んでしまう狂気。
「駄目だよ、アグラム」
シェンリィスは涙を流しながら首を左右に振った。
これ以上は彼自身が保たない。
余力がないのは自分も同じ事。けれど、彼の状態は自分とは訳が違う。
このままでは彼は。
「僕……は、君を……たくない」
彼は鼻先で笑う。
小馬鹿にしたような顔。
分かっている。
この状況で二人とも無傷で助かるなど不可能な話だ。犠牲になるならば王の‘リト’ではないアグラムの方がいい。
何より、純粋な戦闘能力であれば、彼の方が勝っている。
「温い事いってんじゃねぇよ。悪夢を止めるのがてめぇの役目だろうが」
「違うよ、僕は……」
「 っ!!!」
唐突な竜の咆吼にシェンリィスは覚醒する。声にならない、言葉に出来ない竜の嘶き。自分のものと錯覚するほどそれは間近で聞こえた。
記憶の微睡みから急激に引き戻され、シェンリィスは驚いて目を見開いた。
目の前に迫っていたアグラムの爪を何かが受け止めていた。
黄金色の、何か。
「っ!」
アグラムが大きく表情を歪める。
驚いたような顔。それがすぐに狂喜する顔に変わる。
シェンリィスは動く事が出来なかった。
先刻まで倒れていたはずの少年が目の前にいる。
男の爪を受け止めているのは少年が手にした黄金色に輝く大きな斧だった。斧に宿る魔力は尋常のものではない。
「……クー?」
目の前にいる少年が放つ異常な魔力に身体が動かない。
戦士ではない力の弱い子どもであるはずの彼が、アグラムの爪を受け止めていた。血にまみれた姿のままで、巨大な斧を両手で支えている。
無茶だと思う。
アグラムの力は尋常ではない。剣を交えた自分にはそれが理解出来る。竜の姿にもなれない子どもでは太刀打ち出来る力ではないはずだった。
「 っ!!」
再び竜が嘶く。
泣き叫ぶような声にシェンリィスは耳を覆いたくなる。
声はクウルの口から出ていた。
もがき苦しむような悲痛な叫び声だ。
「……そうだ、その力だ」
くっ、とアグラムが笑う。
「その力が見たかった。ちびには不相応な力。ただの竜の力じゃねぇな。……何者だよ、てめぇ」
クウルは答える代わりに再び嘶いた。
空気が激しく震動し、微かに地響きを引き起こす。
正気でいるようには見えない。
歪みに影響されて狂った竜のようだった。
その様子にアグラムは楽しげに口元を歪ませた。
「そうかよ、そんなに俺と殺りたいのかよ? ……なら、先にお前を殺してやるよ」
瞬間、アグラムがその場を離れた。
追いかけるようにクウルの身体も動く。
訓練を受けていない子どもの動きではない。素早く、的確に、アグラムの急所を狙って打ち込んでいく。竜の本能だけで動いているかのような無駄のない動きだった。
それでも経験が違うと言わんばかりにアグラムが応戦する。尋常ではない少年の強さを楽しんでいるように見える。激しくぶつかり合い、離れるを繰り返し、互いに打ち合う攻撃すら防御に変わるような実力の拮抗した者同士の‘見せる為の試合’のようにさえ見える。
唖然とその姿を見つめていたシェンリィスは不意に奇妙な事に気付く。
光り輝く武器のせいだろうか。
少年の身体が薄い膜で覆われているように見えた。
(……黄金の……膜……?)
見間違いではない。
確かに少年の身体は黄金色に輝いている。
「黄金……竜……?」
まさか、と思う。
今の彼の姿や気配は他の竜とは明らかに違う。このまま金色の翼が生え、金色の竜の姿になったとしても違和感がないほど強い気配がする。
けれど、そんな訳がない。
彼が本当に黄金竜だとすれば星読み達がとっくに気が付いているはずだ。竜王選定など無意味な事をすることなく、彼を礎にするはずだ。
子どもといえ、竜の姿になれないとはいえ、黄金竜は黄金竜なのだ。
「そんな訳がない……」
そんなことがあって良いわけがない。
黄金竜の存在を望んでいたのはシェンリィス自身だ。けれど、自分を助け、友達と呼んでくれたあの優しい少年が、どんな自分でも信じてくれると言ったあの少年が、黄金竜なのだとしたら、こんな悲劇的なことはない。
それに。
「僕は………」
涙が溢れる。
断片的に蘇る。
自分がしたこと。
想い出したくなかった。出来ればこのまま一生忘れていたかった。運命から逃れたかった訳ではない。ただ、覚えていれば辛いだけで、動けなくなりそうだった。それが怖くて忘れてしまいたかった。
涙でぼやける視界の中で、アグラムが翼を広げたのが見えた。
同時に黄金色の薄い膜が翼のように広がる。
「……やめて、クー」
勝ち目はない。
彼が黄金竜であるならば、ただの竜王候補如きが敵う相手じゃない。
自分が割って入ったとしても無意味だろう。
それでもシェンリィスは自分の翼を広げる。
二対の翼。
慣れた感覚。
「……お願い。彼を、殺さないで」