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「よぉ、やっと出てきたな」
ぞっとするほど凄艶で恍惚そうな笑みだった。
粟立った全身が収まらない。恐怖か、喜びか、それとも、別の感情か。一言では説明の出来ない感情が全身を駆けめぐっていた。
「ようやく会えたぜ、シェンリィィィスっ!」
気の狂ったような叫び声を上げて男がシェンリィスに向かって突進してくる。
身体が自然に動いた。
剣を抜き放ち彼の爪を受け止める。痺れるような感覚が全身を抜ける。
アソニア種の竜だ。
目の上に大きな傷が三本走っている。鋭い爪で抉られたようだと思った。
「折角会えたんだ、とことん楽しもうぜ? なぁっ!」
楽しげでどこか狂ったように男が笑う。
強まった力に押され弾き飛ばされそうになりながらも自分の口元に笑みが浮かぶのが分かった。
男は自分を知っている。そして、自分も恐らく彼のことを知っている。そうでなければこれほどまで興奮するはずがない。こんな的確に身体が動く訳がない。
シェンリィスは彼の力を受け流すように身体をよじらせた。不自然な格好になるが、それは彼も同じ事だ。
不自然な体勢のまま剣と爪が再び交わる。
慣れた呼吸。
幾度も経験したことのある感覚。
(楽しい……)
久しく忘れていた高揚感。戦うことが、この頭のどこかが焼き切れてしまいそうな程の感覚が、楽しくて仕方がない。
後にも先にも、自分をこれほどまでに興奮させるのは彼だけだ。
これほど狂いそうなのは彼しかいない。
そう。
かれしかいない。
……だれ?
(……誰でもいい)
誰でもいい。
彼が何者であっても、出会ってしまった以上、やるべきことは分かっている。自分がやるべきは彼と戦い勝利すること。
殺せ、と脳裏で何かが囁く。
殺して魂を貪るのだ。
そうして強くなった魂を持つ竜が竜王となり谷を治める。それがあるべき姿。
「簡単に死ぬなよ、なぁ、シェンリィス!」
叫ぶような彼の声。
興奮する。そのがなるような大きな声で、自分を抉るような激しい憎悪を向けてくる彼に名前を呼ばれるだけで、考えることを辞めてしまいたくなる。
この快楽という渦に身を投じ、彼と永遠と戦っていたい。
何度も何度も彼と衝突して離れるたびにその感覚が強くなる。
思い出すこと何てやめればいい。お互いに望むことだ。満足するまで存分に戦えばいい。殺し合って、どちらかが、どちらかの一部になるまで。
「………だ……め」
「……っ!」
不意に聞こえたか細い声にはっとしてシェンリィスは攻撃を躊躇った。瞬間彼の一閃がシェンリィスを襲った。
反射的に防御の態勢をとったものの、勢い凄まじい彼の攻撃に当てられ、シェンリィスは大きく吹き飛んだ。背中に強い衝撃。破裂するような衝撃を受けた木々がみしみしと音を立てながら倒れていくのがわかった。
「……ごほっ」
シェンリィスは咳き込む。
ちっ、と舌打ちが聞こえる。
退紅色の髪の男が近づいてくる。
「おい、何だよ、その戦い方はっ!」
「僕……は……」
近づいてきた男に髪を鷲づかみにされる。
全身の痛みに加えられた新たな痛みにシェンリィスは呻く。
「冗談じゃねぇぞ、てめぇはこんなモンじゃねぇだろっ! こんなモンで終わりな訳ねぇだろうがっっっっ!」
髪の毛を掴んで投げ飛ばされて、シェンリィスは大きく飛ぶ。怒りにまかせた容赦のない力で。
空中で何とか体勢を整え、着地した地上で低く構えた。
男の姿が見える。
視界が涙で歪んでいた。
「僕は……君と……」
激しい頭痛を覚えてシェンリィスは頭を抱える。こんな事をしている場合じゃない。思い出している場合じゃない。
なのに。
(どうして……)
思い出さずに彼と殺し合えば一生後悔するような気がした。
「君は………誰?」
「あ?」
近づいてくる彼は怪訝そうに眉を吊り上げた。
「君は一体……誰なの? 僕の……何?」
「………」
涙を拭って彼を見ると、彼は目を見開きただ、立ちつくしていた。その隙だらけの一瞬を突けば彼に一撃を加えられたのかも知れない。
でも出来なかった。
動くことが出来なかった。
自分は知っているはずなのだ。この恐ろしくも美しい竜を。
思い出せないことが怖い。
それなのに、思い出すことが怖い。
「……くっ……ははは」
突然男は笑い出す。
「ははははははははははは……!」
先刻よりも更に狂ったような笑い声だった。
「なるほど、てめぇらしい選択だ。確かにその方がお前としても都合がいいだろうよ!」
男は楽しげに笑う。
「ハイノを殺すのも楽だったろう。躊躇いもせず殺すことが出来ただろうな! 盟友とも呼んだ自分の友人を、躊躇いもせずに……っ!」
「な……にを……」
声が掠れる。
彼の言葉が怖い。
「だが」
ぴたりと彼の笑いが止まる。
「っ!」
気付いた時には男が間合いに踏み込んでいた。
男の爪を剣で受け止める。
強い力のせいではない。恐怖心から微かにシェンリィスの手は震えていた。
「俺は認めねぇぞ、シェンリィス」
低く囁くような声。
背筋が氷るような声だった。
「思い出せよ。お前のその身体を貫いたのは誰の手だ?」
「………」
「お前のその指を食いちぎったのは誰だ?」
「………」
「俺の目を抉ってこんな傷を付けたのは……誰だ?」
「……っ!」
脳裏に浮かぶ光景。
激しい雷雨の中、飛び交う竜。
激しい攻防の末、シェンリィスが抉ったもの。腹部の痛みより生々しく残る‘彼’を引き裂いた感覚。
雨水で流してもなお濃い彼の血の匂い。
「ぁ……あ……っ」
「思い出せよ。俺は誰だ? お前の何だ?」
楽しげに彼の口が引きつった。
知っている。
この笑い方。
威圧的な程の言い回し。
知っている。赤よりももっと鮮烈な色を持つ竜。忘れたくても忘れられない。忘れても強く思い出す彼の存在。
誰よりも、シェンリィスを理解している一匹の竜。
「……あぐ……ら………」
「そうだ、忘れる訳がねぇよな? お前の身体にも、俺の身体にも、互いの記憶が刻み込まれてるんだよっ!」
「やだ……駄目……っ」
視界が涙で歪む。
思い出したくない。
思い出したくない。
思い出さなきゃいけない。
思い出したくない。
「や……」
男の身体が離れる。回転し、たたみかけるように男の爪が振り上げられた。
思い出す痛み。
どこかで見た光景。
「や……め」
身体が竦んで動けなくなる。
シェンリィスは目を見開いたままその振り下ろされる爪を見ていた。