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頬に当たる少し冷たい風が身体に付いた血の匂いを絡め取っていくような気がした。
シェンリィスは屋根の上に腰を降ろすと深い息を吐いた。
突然自分に襲いかかってきた女の言葉が頭の中を巡っていた。
『そいつは、飛翔王を殺し、赤妃までも殺した悪魔だ!』
彼女はそう叫んだ。
『婚約を破棄しただけでも飽きたらず、記憶から消去するほど私のことが嫌いだったの!?』
そう言って彼女は泣いた。
どちらも彼には覚えの無いことだった。けれど、彼女が本当に自分を知っているのであれば、彼女の言葉は事実なのだろう。少なくとも、婚約をしていたのは本当だろうと思う。あの時、彼女の血を浴びたら自分はただではすまないと思ったのだ。だから彼女と婚約をしていたのは事実なのだ。婚約を放棄した理由は見当も付かないが、彼女の口ぶりから一方的に自分が突っぱねたのだろう。そして、飛翔王と赤妃を殺した。その後、負傷し、記憶を失いこの場所にいる。
まるで悪人だ、と思う。彼女の言うのが事実であれば自分は悪魔と呼ばれても仕方のないようなことをやってきた男だ。竜王を二人も殺し、そして自分自身は次の王候補になっている。玉座を欲し、邪魔な王を殺したのではないのだろうか。
手のひらを見つめると小刻みに震えていた。
竜王赤妃はただ眠っているだけと記憶している。眠っている状態では死んでいるのとかわりがないから彼女は殺したと表現したのか、或いは眠っている赤妃をシェンリィスが殺したということだろうか。
最近になって自分が殺したというのなら、負傷していた理由が分かる。赤妃を殺し、その罪で追われ戦闘になり負傷したという事だろう。
「……ちがう」
そこまで考えてシェンリィスは首を振る。
負傷したのはそんな理由ではない。
「あの傷は……」
脳裏に鮮烈な赤がよぎる。
血の色。
生命の朱。
血を流す男の顔。
鋭く、
射抜くような、
「シェンっ!」
間近で声を掛けられ、シェンリィスははっとして目を開いた。
息がかかるほど近くに少年の姿を見つけて心臓が跳ね上がる。
「わっ……えっ!?」
驚いてのけぞった瞬間足元が滑った。屋根の傾斜に沿ってシェンリィスの身体が滑り落ちていくのを感じる。瞬間、少年の手がシェンリィスの衣服を掴んだ。
あと少し。
ほんの少し遅ければ彼の身体は屋根から投げ出されていた。足の半分ほどが宙に浮かび、不自然な形で寝そべっている為に身体に上手く力が入らない。
「あ、あっぶねぇー!」
言いながらクウルは腕の力でシェンリィスを引っ張り上げる。
子供であるとはいえ竜の力は強く、引っ張り上げるのにも余裕があった。
「いきなり滑り落ちるなよな、ビックリするだろ」
「ご、ごめん……」
驚かされたせいで足を滑らしたのだ。謝るのも奇妙な気がしたが驚かせてしまったのは事実だ。彼は引っ張り上げられながら素直に謝る。
屋根の上まで引き戻され、ようやくシェンリィスは息を吐いた。
「大丈夫か?」
「うん……何とか。クー、どうしてこんなところに?」
「それ俺のセリフなんだけどー」
クウルは屋根の上を歩きながら言う。
「部屋にいると思ったらいねぇし、窓空いているから記憶戻って家出したかと思って超びびったての」
「家出って……こういう場合も家出っていうの?」
尋ねると彼は少し気に入らなそうに唇を尖らせた。
「当たり前だろ? 寝食共にすればそれ即ち家族! 一緒に生活して一緒に居るんだから家族だし、家族だったらここはシェンの家でもあるって事。俺はシェン好きだし、一緒に居たいって思ってる訳だから家族でいいだろ?」
さも当然のように言う。
シェンリィスは少し目を伏せた。
自分は彼にそこまで言って貰えるほどの人物ではないのだ。
「……クーはキイスさんに聞かなかったの?」
「聞くって何を?」
「僕が……竜王陛下を殺したかも知れないって話」
彼は驚いたように目を見開く。
「殺したの?」
勢いよく首を振る。
「し、知らないよっ! 覚えて、ないから………でも、あの人の言葉信じるなら、多分……そう」
「あの人ってシェンを襲ったっていうネーさんだよな? 俺その人の事しらねーし、いきなり人ン家に上がり込んで、キイス怪我させる奴の言葉よりシェンの方を信じるよ。今は‘かもしれない’ってだけ。シェンが記憶戻って違うっていうなら俺はそっちを信じる」
「でも、もし本当だったら?」
自分が何者か分からないこと以上に、私欲の為に竜王を二人も殺めたような男であることが恐ろしくてたまらない。殺したのであればそれなりの理由があるのだと思いたかったが、竜王を殺す程の理由が分からない。自分はそんなことをしないと思いたいけれど、すっぽりと抜け落ちた記憶の自分がしないと自信を持って言うことが出来ない。
不安な気持ちだけが心の中に残る。
そんな不安を吹き飛ばすように彼は笑う。
「関係ねぇんじゃねーの?」
クウルは屋根の上に胡座をかくように座る。
「殺そうが殺すまいがシェンはシェンだろ。俺はシェンは殺してないって思うし、殺していたら理由があんだな、って思う。すっげー下らない動機かもしんないけど、俺はなんか違う気がするんだ」
「違うって?」
「俺さ、お前のこと知ってっぽい奴と会ったんだ。そのネーさんじゃなくて」
「え……?」
「そいつさ、俺を襲って来たんだけど、そん時にこう言ったんだ。俺の悲鳴聞こえたらシェンはどうすると思うって。俺はすっ飛んでくると思った。違う?」
「ち、違わないけど………え、襲われたって……いつ」
そんなの聞いていないとシェンリィスは心の底で叫ぶ。
彼は平然と答える。
「シェンが襲われている時。聞いてないだろ。セイムの事もあったし、話す暇も無かったし」
「セイムさん、どうかしたの?」
彼は少し暗い顔をした。
「俺襲った奴に腕を切り落とされたんだ。カリアが繋げ直したけど、目を覚まさないとちゃんと動くか分かんねぇの」
シェンリィスは心から驚いた。
自分が彼女に襲われ自分のことで悩んでいる間に立て続けに色んな事が起こっていたのだ。騒がしいとは思っていたが、不当に進入した彼女の処遇を巡ってもめているのだとばかり思っていた。
こんな幼い子が襲われ苦しんでいる間、自分は自分の事で手一杯で彼を気にしている余裕もなかったのだ。
情けなくて涙が出てくる。
「お、お前、何でそこで泣くんだよっ!」
「ご、ごめん。……大変な時こそ、側にいるべきなのに、僕、自分の事ばっかりで……」
彼はくすりと笑う。
「ばーか、そんなの当たり前だろ? お前は知らなかったんだから、そんなことで責められる謂われねぇって堂々としてりゃいいだろ。……でも、うん、やっぱシェンって記憶無くす前も今も変わんねぇと思うんだ」
「……ど、どうして?」
「だって、あいつ俺から悲鳴が聞こえたらお前がすっ飛んでくるの確実だって思ってたんだぜ? 俺がお前とどんなに親しくしてるか知らねぇのに。つまりシェンは、記憶無くす前は誰かの悲鳴聞いたらすぐに駆け付けるような性格だったって訳だろ。今と変わんねぇじゃん」
「クー」
ボロボロと涙がこぼれる。
悲しい訳ではない。彼の優しい言葉が嬉しかったのだ。自分だって怖い思いをしているというのに彼は優しい。その優しさが嬉しくて、情けない自分がおかしくなって笑った。
「ホント泣き虫だよな。笑うか泣くかどっちかにしろよ」
「うん、ごめん……」
「別に良いけど。で、聞きたいんだけどさ」
「……うん」
「シェン、アグラムって奴覚えてる?」