5
案内された寝所は綺麗な場所だった。竜王の庭と呼ばれる大きな庭園と隣接しており、開かれた大きな窓からその風景が覗けた。風通しのいい部屋を歩くと、奥にあるベッドがもぞりと動いた。
どくん、と心臓が跳ね上がる。
あの場所にシェンリィスがいる。
レシエの足は一瞬竦んだように動かなくなるが、奮い立たせるように拳で叩くとすんなりと動き始めた。
ベッドに近づくと、男が寝返りをうつ。
鬣と同じ白茶色の柔らかそうな髪が見える。
ぼんやりとした様子で彼が目を開いた。
「れ……しえ?」
名前を呼ばれて息が詰まる。
殺したくない。苦しめたくない。その姿を見れば、今まで憎んでいたことが嘘だったように、だれよりも大切なのだと自覚してしまう。
名前を呼んでは駄目、と思う。名前を呼んでしまえば後戻りが出来なくなるから。
けれど、自分の口からは彼の名前がするりとこぼれ落ちる。
「シェンリィス……」
誰の名を呼んだ時よりも愛おしく感じる。
大切な人の名前。
かつての婚約者だった男は自分を見て明らかに狼狽したような表情を浮かべたが、すぐに表情を変える。
瞳に蔑むような拒絶するような色が浮かんでいる。
「……何しにここまで来たんだ」
「倒れたと……聞いた」
「君には関係のないことだよ」
「そう……。それでも、私は貴方が心配だった」
シェンリィスの顔色は酷く悪い。やせ細っている訳ではないが、やつれているようにさえ見える。
それでも自分に向ける言葉の語調ははっきりとしている。
「そういうの、迷惑なんだ。……出て行ってくれ、顔も見たくない」
「シェンリィス」
名前を呼ぶと涙が出た。
どんなに否定しても感じてしまう。やはり自分は彼のことを誰よりも愛おしく思っている。
「貴方が好きなの」
「僕はしつこい女は嫌いだよ。迷惑だって、言っているだろ」
「……愛しているの」
「………出て行ってくれ」
「嫌よ。本当の事、話してくれなきゃ出て行かないわ」
レシエは顔を覆う。
「私のことが嫌いなんて嘘よ」
「嘘じゃない」
「だったら、何で、あんなに優しい目をしたの……?」
「……何のことだ」
「どうして、そんなに辛そうな声をしてるの?」
「……」
「答えて。でなければ出て行かないわ」
「………」
彼は黙っていた。
自分の嗚咽だけが部屋の中に響く。
やがて、ゆっくりと、彼の手が伸びてきた。
指先がレシエの頬に触れる。
優しく、微かに冷たいシェンリィスの手。
「……相変わらず、泣き虫だね」
呟いた彼の声は優しかった。かつて、幼い頃の自分が好いたあの頃の少年のように優しい声だった。
見ると彼は少し困った風に眉を曲げて、自分を見ている。その口元は微笑んでいた。
「困ったな……君には嘘が付けない」
「……」
「君のこと嫌いだってのは、嘘だよ」
彼は言う。
「でも君に出て行って欲しいのは本当。君が居ると困るんだ」
「どういう……意味?」
シェンリィスは半身を起こそうとする。苦しそうだった。
反射的にレシエは彼に手を伸ばした。
「寝てていいのに」
「いや、大丈夫。もう、回復する頃だから……」
ふつり、と怒りが湧き出す。
「こんな風にしたのは、あの竜王? あの人が必要以上に貴方を働かせたから、貴方がこんな風に……っ!」
身を起こしたシェンリィスは首を振った。
よほど消耗しているのだろう。彼にしては珍しく衣服が乱れはだけている事を全く気にする素振りも見せなかった。
「違う。……違うよ、レシエ。これは僕自身が望んだことなんだ。あの人の‘負担’を少しでも軽くしたいから。僕は、竜王のものだから」
「シェンリィスはものじゃない」
「うん、物だったらもっと良かったかもしれない。物なら遠慮無く陛下も使える。……僕は‘リト’なんだ」
「……え? 占い師?」
「違う。そっちの意味じゃない」
レシエは首を傾げる。
リトは強い占星師の意味で使われる。数多くの星読み、星見たちよりも優れた星読みに与えられる称号だ。王の為に星を読み、王の為に尽くす、それがリトという号を持つ者の定めだ。
リトという言葉に、他の意味があることなど知らない。
「竜王の為に生まれ、竜王の為に死ぬのが‘リト’だよ。今の君にはそれしか教えられない」
「何よ、それ……」
「そう決まっているんだ。秘密であることも、竜王の為にあることも。創世の頃からの決まり。僕は‘リト’である以上、他の竜とは違う。君が側にいれば……君が僕の恋人であるなら、君は不幸にしかなれない。僕は……それは困るんだ」
「……貴方がいない方が、よっぽど不幸よ」
彼はようやくはだけた衣服を整える。肩口の紐で止めるとレシエの頬を撫でた。
「僕のために、君の人生を使う必要なんてどこにもないんだ。レシエ、僕は君が大切だけど君を選ばない。君が側にいると、苦しんだ」
「どうして……!」
シェンリィスはただただ優しく微笑む。
「君が‘リト’なら分かったかもしれないね」
レシエは近くにあった枕を掴むと彼に叩きつける。
「意味が分からない! 納得出来ない! シェンリィスはいつもそうだ。秘密ばっかりの、嘘つき、馬鹿、ろくでなし!」
「……うん」
「死ぬまで、諦めないから……!」
「……それは困るよ」
「じゃあ、結婚してくれればいい。私のこと、嫌いじゃないんなら、出来るでしょ!」
「ごめんね、それだけは出来ない」
「じゃあ何で、優しくするのよっ」
愛おしそうに触れてくる彼の手が辛い。
勘違いをしてしまいそうになる。彼にとって自分が何よりも大切ではないのかと。
「突っぱねても、追い掛けて来たのは君だよ」
「だって……」
涙がこぼれる。
信じたくなかったのだ。だから自分を奮い立たせる理由を作って追い掛けてきた。シェンリィスは優しい。馬鹿みたいに優しい。その真実を信じたかったのだ。
「君のこと、好きだよ。昔から。あきらめが悪くて可愛い。でも、君に対する僕の感情は恋じゃない」
シェンリィスは立ち上がると扉を開いて出て行くように促した。
「……お見舞いありがとう、早くレミアスへお帰り、僕の可愛い妹姫」