2
微かに話声が聞こえた。
少し歳を取った印象の落ち着いた女の声と、張りのある声をやや潜めた男の低い声、そこに少年とも少女とも付かない快活な声が混じる。
「一応の処置はしました。あとは体力次第かと思いますよ」
「細っい奴だな。……体力次第って本当に大丈夫なのか?」
「まぁ、キイス様、ご自分の体格を基準に考えてはいけませんよ? フェリアルトは巨漢が多いですが貴方はその最たるですからね」
「無駄に体格がでけーって言われている気分だな」
「あら、褒めているんですよ。キイス様もクウル様もよくお召し上がりになり健やかにお育ちですもの」
近い位置から少年の声が聞こえる。
「カリアー、それ褒めてるようにきこえないんだけどー」
くすくすと女が笑う。
暖かい声だ。
そして楽しそうに聞こえる。
彼はゆっくりと目を開く。鼻先が触れそうなほどの間近に人の顔があって心音が激しく跳ね上がった。
「!!」
「おー目が覚めた! シェンの目が覚めたぜ、キイス!」
「だー、もう、それまだそいつの名前って決まったわけじゃねーつってんだろうが!」
「キイス様、病人の前ですよ」
静かにするようにと女が指を立てると、男は複雑そうな顔をして黙り込んだ。
「クウル様も、あまり驚かさないように」
「はぁーい」
言って少年はベッドから降りる。
彼は半身を起こす。簡単な服しか着ていないことに気付いてかけられていた布団を引っ張る。頭部に違和感を覚えて触れると、角がむき出しになっているのが解る。居心地が悪くて彼は赤面した。
「あ……あの……」
「目を覚まさないからどうしようかって思ったんだよ。でも良かったー、目を覚まして」
背の低い少年は心の底からそう思っているようにホッとした表情を浮かべていた。
髪は茶色く瞳は金の色をしている。竜の年齢から言って五十を過ぎた頃だろうか。幼霊期を過ぎ、人の形を持つようになって間もないくらいだろう。それにしては体つきが小さく、逆に言葉もしっかりしているのが気になったが、少し早く幼霊期を過ぎたのだろうと思う。
その隣には驚くほど大柄な男がいた。少年とは違い、既に成竜となっており、立派な体躯をしている。灰の髪を持ち、前髪の一房だけが赤い。気むずかしそうに唇を結び、少年の金とはまるで違う印象の金の瞳を持っている。
その瞳に睨まれ、驚き視線を逸らす。逸らした先には女の姿があった。
女は紫の髪を持つ優しそうな女だった。つり上がった赤い瞳は少し怖かったが、その瞳の奥は優しい。どのくらいの年月を生きて来たのだろうか。老竜に近い年齢のようにも見えたが表情は若い。
彼女は近づき彼の額に触れて確認をする。
どきりとして顔が熱くなるのを感じたが、彼女は優しく笑った。
「大丈夫そうですね、安心しました。ここはフェリアルト領主キイス様の城塞になります。深い傷を負って森に倒れていた所をクウル様が見つけて運んで来られたのです」
「あ、クウルって俺ね、俺ー」
明るく少年が自己主張をする。
助けられた、と聞いてお礼を言おうとしたが、言葉に詰まった。
自分は何故そんな傷を負ったのだろう。
「覚えていらっしゃいませんか?」
女に覗き込まれ、彼は頷く。
「シェン寝ぼけてんじゃねーの?」
「……あ、あの、その……シェンって……」
「んー? お前の持っていた剣にシェンとか書いてあったけど、ちげーの?」
「え?」
「名前」
「………」
名前を言おうとして言葉に詰まった。
思い出せない。
自分の名前がすっぽりと抜けたように思い出せないのだ。それどころか今まで自分が何をしていたのかも思い出せない。
何もない場所に急に放り出されてしまったかのようで、酷く不安を感じる。
「だー! もう、シェンってのはお前の名前かって聞いてんだよっ! そんくらいのこと、はきはきと答えろよ!」
「ひっぁ……!」
男に怒鳴られ、彼は覚えず身を竦める。
過度の恐怖の為か、それとも不安感からか、ぼろり、と目から涙がこぼれた。
「キイス様! 自重して下さいませ!」
「あー、泣かしたー。キイス最低ー」
「ばっ、何で泣くんだよっ!」
「あ。あの……ご、ごめんなさい」
謝ったものの、涙が止まらなかった。
ボロボロとこぼれ落ちる涙に男の表情が次第に苛立った様子へと変化していく。
堪らず彼は襟首を掴んだ。
「……っんの、てめぇ、付いているもん付いてんのかよっ!」
「まぁ」
「キイスってば、げっひーん」
「うるせぇ、外野! いいか、てめぇも男だったらメソメソすんじゃねぇ!」
「あ……ご、ごめ……んなさ……」
「あーもう、キイスいいよ。邪魔だからあっち行って。顔怖いんだしさ、病み上がりでその顔見せられて怒鳴られたら誰だって泣くってーの」
「何だと、ゴラァ」
「ごめんなー、あいつ顔怖いけど、べっつに取って喰ったりしないから安心しろよー」
少年に微笑まれ少しホッとする。
涙腺が更に弱って涙がこぼれたが、少年は気にせず指先で拭う。
「ごめ……んなさい。僕……その、名前……思い出せない」
言うと少年は少し驚き女の方を見上げる。
女は目を瞬かせ、ベッドの脇に膝を折った。
「一時的な混乱でしょうか。これの名前はわかりますか?」
「……まくら」
「現竜王様のお名前は?」
「………赤妃さま」
「先代竜王陛下は」
「えっと……飛翔……常勝とも……呼ばれています」
「それは号ですわね。名前は?」
「アスカ様……」
「アスカ王の出身は?」
「あ、アソニア……」
「ご自分の出身地は?」
「………」
「ご自身の瞳の色は?」
「………」
「レキイの大戦で灰の目の王を倒した英雄の名前と号は?」
「竜王リヒト様、号は迅雷。……灰の王は倒したのではなく封印されています。実際行ったのは迅雷王ではなく、王の力を預かった人間の子供です」
なるほど、と彼女は頷く。
「ご自分に関わる事だけを忘れていらっしゃる様子。これは一時的な混乱ではないかと思います。ちゃんとした教育を受けいるようですから、過去に竜王若しくは四方将軍を出した家の出でしょう。服装からレミアスの方と思います故、キイス様のお名前を借り、レミアス領主へ問い合わせてもよろしいでしょうか」
聞かれ、キイスは頷く。
「カリアに任せる。くれぐれも先方に失礼のないよう」
「承知しました。その間、彼は別邸の……」
方へと言いかけたらしい彼女の言葉を遮りクウルは楽しそうに言う。
「なぁ、こいつ家に置いてもいいだろ?」
「えっ?」
「クウル様、彼がどんな立場にあるか分からない以上客人として迎えるのが……」
「えー? だってよー、別邸って豪華だけど不便だしさー、誰かと常に一緒の方が記憶とか戻りやすいんじゃねーの? それに、拾った以上責任持たなきゃいけねーって、キイス言ってたじゃんか」
「人と動物は違うだろ」
「えー、やだー、シェンは俺が拾ったのー、俺と一緒にいるのー!」
バタバタと手足を動かす彼に、キイスは盛大な溜息をつく。
「……好きにしろ」