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キイスはじっとしてろといったが、とてもそんな気分にはなれなかった。
シェンリィスはベッドから這い出ると角を守るためにバンダナをすると、剣だけを握って部屋の外へと出た。いつもならこんな格好で出歩いたりはしないものだが、嫌な予感がしたのだ。
せめて屋敷の中だけでも探さないと気が済まなかった。
少し動くだけでも息が上がる。
それだけ体力を消耗していると言うことだろう。食事もとっていない為になおのこと身体が動かし辛い。
重い身体を動かしてシェンリィスは廊下を歩く。
廊下の窓から差し込む日差しが眩しい。
「……っ」
不意に激しい頭痛がした。
シェンリィスは頭を抑え壁に手を突いた。
(悲……鳴……?)
誰かが声にならない声で叫んだ。
身体の奥底が溶かされるかのように苦しい。
知っている気配。
シェンリィスはその気配を知っている。
(……この気配……クー……?)
がしゃん、と窓ガラスが割れる。
咄嗟にシェンリィスは横に飛んだが、頭痛と消耗した体力のせいで反応が遅れる。腕に痛みが走った。
「……っ!」
斬り込まれたのが分かり、シェンリィスは顔を顰めた。
目の前に怒りの形相の女がいる。
綺麗な薄緑の髪をしている。瞳は空の青だった。
「無様ね、シェンリィス。私如きに斬り込まれるなんて」
「き、君は……?」
「ようやく見つけたわ、悪魔! 私が引導を渡してやる!」
「えっ、え、ちょっと!」
更に踏み込んできた女の剣を避けながらシェンリィスは剣を抜いて剣を受け止めた。交わった剣の重みで強さが分かる。相当の修練を積んできたのだろう。動きや力に無駄がない。
このままでは殺される。
そう思った瞬間、頭の中が冷えて固まるような感覚を覚えた。
痛みと感情がかき消される。
何も感じない。
相手を倒すことしか頭の中になかった。
何度も経験してきた戦闘の感覚だ。
「僕には勝てないよ」
「っ!」
呟くように言うと女は後ろに飛んだ。
無意識だっただろう。だが、女の判断は正しかった。
シェンリィスの剣が女の目の前を通過する。女は立て直そうとするが、シェンリィスはその隙を与えなかった。切り込み、踏み込むことを繰り返し、彼女を壁際まで追いつめていく。
受け止め続けられるのは彼女の剣の才覚が長けているからだ。
だが、シェンリィスとの差は埋められない。力も技術も、経験も、シェンリィスの方が勝っているのだ。
壁際に追いつめられた女の剣をシェンリィスは弾く。
彼女に致命傷を与えるつもりでシェンリィスは剣を振り上げた。
女の顔に恐怖の色が浮かんだ。
「っ……!」
突然、感情が戻ってくる。
攻撃してはいけないのだと、頭の中で何かが叫ぶ。シェンリィスの身体は、一瞬強ばったように動かなくなった。
その隙を女は見逃さなかった。
シェンリィスの腹部を蹴り飛ばし、彼の身体は激しく飛ばされた。
先刻までの優勢とはうってかわり、今度はシェンリィスが追いつめられた。倒れ込んだところを狙い、女がシェンリィスの上に馬乗りになった。
「甘いわ、シェンリィス。それともそれが作戦? そうして誘い込むことで飛翔王を殺したの?」
「えっ……」
「親友の頼みだから一応話だけは聞いてあげる。飛翔王を……どこにやったの?」
「……ど、う………いう、意味………?」
声が乾いていた。
殺したとはどういう事だろうか。女ははっきりと飛翔王を殺したと言った。その言葉は自分に向いている。
自分が飛翔王を殺したのだろうか。
まさか、とシェンリィスは思う。
そんな訳がない。
けれど、殺していないという記憶もない。
「しらを切るつもり? 本当にとんでもない屑ね……」
女の顔に歪んだ笑みが浮かぶ。
「人畜無害で大人しそうな顔して、やっていることは最低の事ばかり。罪すら認めようとはしない屑の中の屑」
女の指先に鋭い爪が現れる。
「せめて私に言った言葉の一つくらい、真実であることを祈るわ……」
彼女は自分自身の首元に爪を近づける。
「狂って死ねばいいわ。シェンリィス!」
「や……」
頭の中が真っ白になる。
自分の真上で女が死のうとしている。
意味が分からない。
誰なのかも知らない。
ただ、そうして死んだ彼女の血は、自分にとって猛毒よりも恐ろしい毒になる。
そう確信してシェンリィスは硬く目を瞑った。
「………てめぇら、人の家で何やってるんだ」
静かな男の声。
自分のものではない血の匂いがした。
目を開くと、女の爪を掴んでいるキイスの姿がある。その手は切り裂かれ、ぼたぼたと血が流れ落ちている。
「痴話喧嘩なら余所でやれよ」
「は、離せ……!」
「うちの窓ぶち破って、血で汚しといてその態度たぁいい度胸してんな、オイ」
「そ、それは詫びる。だが、これは私とシェンリィスの問題よ。第三者が、口を挟まないで」
「あ゛ぁ?」
キイスは女の腕をそのまま引っ張り立ち上がらせる。乱暴に引っ張ったせいでバランスを取り損なった女はそのままシェンリィスから離れて尻餅を付いた。
「てめぇな! コイツは俺の家に寝泊まりしてんだよっ! 血の繋がりなくたってな、寝食共にすれば兄弟だっつーんだよっ! 人の家族に手ぇ出すんじゃねぇ!!」
シェンリィスは身体を起こす。
女に向かって凄むキイスの右手は血で真っ赤に染まっている。ぼたぼたと落ち続ける血が床に赤い染みを作った。
「家族? あんたは、そいつが何をしたか知っているのか?」
女は皮肉そうな笑いを浮かべる。
「そいつは、飛翔王を殺し、赤妃までも殺した悪魔だ! 庇った所で……」
「知るかっ!!」
キイスは叫んでシェンリィスの腕を掴むと強い力で彼を立ち上がらせた。
「コイツは人の死を泣いて、自分の病み上がりの身体を押しててまで俺の弟を捜しに行こうとする奴なんだよっ! 記憶無くす前は知らねぇけどな、今のこいつは俺の家族だっつってんだよっ!」
強い力で肩を組まされ、シェンリィスは泣きそうになった。
何が起きているのか今ひとつ分からない。キイスもまた混乱しているはずだ。それでもキイスは無条件で自分を助けてくれた。
この人はどうしてそこまで自分を思ってくれるのだろうか。彼女の言った言葉を理解していない訳がないだろう。シェンリィスが分からないだけで、真実であるのかも知れない。彼女の言葉が記憶を失う前のシェンリィスのことだとしたら信頼出来るはずがない。なのにそれでもこの人は自分のことを家族と呼ぶ。
涙が出そうだった。
「……記憶を、無くす前?」
驚いたように女が目を見開く。
「もしかして、私の事が誰だか分からないの……?」
「え、えっと……」
女の顔がみるみる赤くなる。
シェンリィスを激しく憎むような表情だった。
「ふざけないでっ!」
「えっ……あ……」
「婚約を破棄しただけでも飽きたらず、記憶から消去するほど私のことが嫌いだったの!?」
「は……ぇ、こ、婚約?」
「ふざけないでよ、そんなに……そんなに私が嫌いなら、さっき躊躇わずに殺してくれれば良かったのに………」
彼女の言葉は最後の方は嗚咽へと変わった。
彼女は顔を覆って泣き始める。
蹲って泣く彼女は、剣を握って戦っていたとは思えないほど普通の女の子のように見えた。