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コラルの南側にその屋敷はあった。
現在赤妃が深い眠りに就いているため、四方将軍は空席状態にあったが、この屋敷を居とする女主人レシエは普段、南方将軍キリス・ヴェナの号で呼ばれることが多い。四方将軍は竜王により選ばれ、東西南北の守の要となる。
四方将軍は代々同じ名前で呼ばれる。強い竜の名前を受け継ぐのが誉れとされる竜の谷では四方将軍の名を嗣ぐのが竜王に選ばれることの次ぎに名誉とされている。その中でもキリス・ヴェナは必ず女性であることがきめられており、赤妃により選ばれた彼女はコラルで最も優秀な雌竜と言われている。
彼女は自分の屋敷の庭に舞い降りるとすぐに人の形を整えた。淡い緑の髪をした成人女性であった。
すぐさま家人が彼女を出迎えに走る。
彼女は硬い表情で魔法繊維で作られた外套を女に預けた。
「あの悪魔が生きていたって本当?」
厳しい声で言うと女が答える。
「悪魔、かどうかは別として、あの方が生き残ったのは本当ですよ」
レシエは少し舌打ちをする。
「あの男すら仕留め損なったのね。……大方情に流されて攻撃の手を緩めたんでしょう」
「彼に限ってそれはないと思いますが……」
「ノアは知らないから言うのよ。あの馬鹿には時々そう言うところがあるのよ」
ノアと呼ばれた女は少しだけ青ざめた。
「レシエ、仮にも竜王候補です。馬鹿呼ばわりは……」
「あんな野郎、馬鹿で十分。あの悪魔みたいに屑じゃないからまだマシよ」
二人の竜王候補を馬鹿と屑と言い切り、レシエは号ではなく本当の名前の方で呼ぶ女の方を見た。
「で、どこからの情報よ?」
「コラル城からです」
「わざわざ情報を届けてくれたの?」
「レシエが何度も問い合わせているから気を使って下さったんでしょう。貴方がお二人に因縁あることは周知の事実ですから」
「……まだ私がそんなことにこだわっているとでも思っているのかしら」
不満そうに言うとノアはにこりと笑う。
「気にされているのは事実でしょう」
「やめてよ。事実だから余計に癪に障るわ」
言いながら彼女は廊下を歩く。
レシエは南方将軍として城にいた。南を守り、コラルを守り、赤妃を支えてきた。赤妃が戦わずして王になったとは言え、彼女を見れば支持をするのが当然のように思えた。当時、四将軍に選ばれた全てが同じ判断をした。
誰が何を言おうと、赤妃は竜王だった。少なくともその役目は果たされていた。
(でも……)
レシエはノアを振り返って睨め付ける。
「言っておくけどね、私があの屑にこだわるのはそんなんじゃないからね」
「そんなん?」
少しからかうように聞いて聞いてくる彼女から視線を逸らし、レシエは息を吐く。
「私はあの悪魔を竜王にしたくないだけ。なんであんな奴が竜王候補なのかしら」
あんな悪魔のような男が竜王になってしまえばこの谷は滅ぶ。分かっているのに手出しは出来ない。レシエが竜王候補に選ばれていないからだ。選ばれていたのであれば真っ先に彼を殺しに行っていただろう。
「……やっぱり私が殺すしかないのかしら」
ノアが息を呑むのが分かった。
「私なら、まだ殺せるかも知れないわ」
「いけません、レシエ、そんな恐ろしいことを」
「あいつが、竜王になる方がもっと恐ろしいわ」
「ですが、竜王候補を候補でない貴方が殺してしまえば道が傾きます」
「もう傾いているのよ。……あいつが飛翔王を殺した時から」
声を低くして言うとノアの口から小さな悲鳴が漏れた。
誰かにきかれたらどうするつもりなのかと彼女は小声で言う。
「聞ける範囲に誰もいないわよ。何のためにいつもここに貴方以外は入るなって言っていると思ってるの? キリス・ヴェナとしてなら親友に愚痴もいえないじゃないの」
レシエは腰に手を当てて、家人であり自分の古くからの親友に不機嫌そうな顔をしてみせる。
「飛翔王は殺されたのよ。腹心と思っていた人に」
震える声でノアは言う。
「……アスカ王は死んでいません」
「死体が見つかっていないから? それともあの時コラルの時が大きく揺らいだから?」
「両方です」
「確かにそうよ。でも、あれほど力のあった人が、何故戻ってこないの?」
「それは……」
ノアは黙り込む。
コラル城内にいた者の中で、先代王アスカに近い場所にいた者ほどアスカは死んでいないと信じている。アスカの死体は見つかっておらず、あの時大きな時空の歪みがうまれていたからだ。幼い頃のアスカがそうであったように狭間に落ちてしまったのだという者もいる。だが、まだ成竜になっておらず力の不安定だった子供の頃とは違い、竜王となったアスカには自力で戻れる力があるはずなのだ。
それなのに何故戻らないのか。
答えは最悪な所に行き着くしかない。
「あの悪魔が殺したのよ」
少なくとも飛翔王はもう王として谷を収めるのが難しい。だから赤妃が立ち、選定がはじまったのだ。
もっと早くその異常さに気付くべきだったと思う。レシエたちが真実に気付いた時は既に赤妃が眠った後だった。竜王アスカが谷から消えた日、狭間への道を開くのも閉じるのも竜王を除けばあの日あの場所に一人しかいなかった。赤妃が眠るまで気付かなかったのは自分たちの落ち度だろう。それだけあの男のことを信頼していたのだ。それが何より腹立たしい。
そして事実に気付いた時には既に男は竜王候補として選ばれた後であり、レシエたちが容易に手を出せない状況になっていた。
竜王候補を殺せるのは竜王候補だけ。
それは谷が始まって依頼決められてきた事。破れば谷は大きく歪んでしまう。歪みは竜を狂わせ、さらなる歪みを生む。だから星見たちは慎重に竜王候補を選ぶのだ。
自分が選ばれなかったのは仕方のないことだとレシエは思う。レシエは自分を竜王に向いているなどと思っていない。だが、彼が選ばれたことは異常な事に思えた。何度事実かどうかと星見に確認しても、帰ってくる答えは同じだ。
彼は竜王候補なのだ、と。
「あの屑を殺せば歪むかも知れない。私は十中八九確実に死ぬわ。でも、あいつを王にするよりマシ」
「レシエ……」
「あいつはどこにいるの?」
「……」
「教えて、ノア。私に命令させないで」
レシエが南方将軍となって五十年ほどになるだろうか。自分と同じように武人としての道を選ばなかった親友は、家人という形で自分を支える道を選んでくれた。二人でいる時は二人は親友であり、キリス・ヴェナの名前を振りかざして命令したことは一度もない。それをやってしまえば、二人の友人関係は終わってしまう気がした。
だから、彼女に命令はしたくない。
彼女も恐らくされたくないだろう。
彼女は息を吐いた。
「……どうか一度あの方と話をしてください」
「………」
「約束をして下されば場所を教えます」
彼女に聞かなくてももう一度コラルに聞けば居場所くらい分かるだろう。だがここで、否と答えれば今度は自分の命を盾に脅迫してきそうだった。物腰が柔らかく誰に対しても丁寧な人だが、ノアは時々こうした態度をとる。
仮にレシエが竜王だったとしても同じ行動を取るだろう。だからかわないと思うし、親友だと思っているのだ。
それでも気にいらなそうにレシエは仏頂面で答える。
「分かったわよ。でも、話が出来るかどうかあいつ次第よ」
ノアはほっとしたような笑顔をつくる。
「……フェリアルト領です」