挿話 黒鋼の竜 下
コラルの城の敷地内に入れば、その気配は更に強くなった。
強い気配を辿れば男がどこにいるかはすぐに分かった。
大きな翼を羽ばたかせゆっくり旋回するように降りていく。警備の者達がちらりと見上げてきたが、すぐにその竜がアグラムだと分かったのだろう。その存在を気にすることなくすぐに元の職務へと戻っていった。
アグラムは更に旋回して中庭へと降りていく。竜の巨体で降りても支障のないほどの広い庭は竜王の王妃が管理をしている庭だった。アグラムを待つように女が自分を見上げているのが分かった。
赤い癖毛を持つ若い女。号を赤妃という。
アグラムは地上に降り立つとすぐに人の姿へと変えた。
「お帰りなさい、アグラム」
「ああ」
女に言われアグラムは無表情のまま頷いた。
赤妃は優しい微笑みを浮かべる。幻のように儚く、触れてしまえば壊れてしまいそうなのに、とても強い。
彼女はとても竜には見えない。その血からは確かに竜の気配がする。けれど、どんな種類の竜とも違う気配がするのだ。
アグラムはその理由を多分知っている。
直接聞いたことはないけれど、そうなのだと思う。
彼女が人前に滅多に姿をさらさないのも、髪を赤く染めているのもそれが理由。
「アソニアはどうだった?」
「いつもと変わらない」
短く答えると彼女は更に笑みを深くさせた。
「そう、楽しかったみたいね」
楽しかったとは一言も言っていないと言い返そうとしたがやめた。この人相手には何を言っても無意味のような気がしている。
アグラムはあれからアスカの保護下に入ることになった。忙しい彼とはそうそう会えるわけではないが、この庭まで自由に出入りしていいと言われている。当初は赤妃の話し相手という形で迎え入れられていたが、最近になって赤妃を守る私軍として迎え入れられた。子供の角は抜け、大人の角に生え替わりつつあるもののアグラムはまだ成竜ではない。異例の人事だったが、アスカの周りに来れば来るほどアグラムを否定する者は少なかった。アスカ自ら戦い方の指導をしているためにアグラムは強い。そのことを多くのものが知っていたからだ。
「……ジジイは?」
「向こうで本を読んでいるわ。……行ってきたら? あとで貴方の分も霊酒、持っていくから」
「ああ……」
軽く背中を押されてアグラムは気配のする方へと向かった。
庭の端の方に立てられた白い小さな休憩所の中に彼はいた。アグラムの気配を感じているというのに警戒する様子も振り向く様子もなく本を読み進めている。
アグラムは黙ったまま彼と背中合わせになるように腰を降ろした。
ここにいる時の彼はいつも酒の匂いがする。竜王としての立場を考えれば褒められた事ではないが、ここにいる時の彼は竜王としてではなく‘アスカ’としているのだ。そのくらいの自由は構わないだろうと思う。
アスカは本を閉じて傍らに置いた。
「アソニアはどうじゃった?」
先刻彼の伴侶にも同じ事を聞かれたばかりだ。
「別に何も」
「レミアスは?」
「……変わりない」
「御主の盟友殿は?」
「……」
アグラムが無言で後ろに手を伸ばすと、冷たい瓶を手渡された。
中には琥珀色の霊酒が入っている。
赤妃が自らの力で作り上げたものであり、この技能を持った竜はあまりいない。元来それは精霊族が得意とする術なのだ。繊細な術であり、竜族が同じ事をしようとしても宝石のように硬くなってしまう。稀に綺麗な霊酒を作る竜もいるが、赤妃の技能にはかなわないだろう。その霊酒は彼女にしか作れない繊細な味をしていた。
霊酒に口を付けると、爽やかな味が口の中に広がる。仄かに高級な蜜のような香りもする。
アグラムは香りを味わいながら彼に寄りかかった。
「相変わらずむかつくし、変な奴だった」
「その仲良しの彼とは仲直り出来たのかのう?」
「気色悪い言い方すんじゃねぇ。別に……ケンカなんかしてねぇよ。ただ、その……色々意見が食い違っただけで……」
「仲良し、というのは否定せ……」
「くたばれジジイ」
間髪入れずに言うとくすくすと彼が笑う。
「酷い事を言う子供じゃのう。年寄りを大切にせいとあれほど教えたのにのう」
「てめぇのどこが年寄りだ」
「わしの故郷ではわしの年齢で生きていたらそれこそ凄い長寿者じゃよ。‘ギネス’も余裕じゃな」
「ぎねす?」
「様々な世界一を記録した本じゃよ」
「ふぅん……」
時々彼はアグラムの知らない言葉を口にする。聞いたこともない不思議な響きの言葉は異界の言葉なのだろう。
意味も分からない言葉だけど、その響きは嫌いじゃない。
「それで、ちゃんと話はできたのかね?」
「……たぶん」
「多分?」
「話はした。言いたいことは言った、あいつの話しも聞いた。あいつが馬鹿で変な奴って事を再認識した。それだけだ」
レミアスで知り合った竜はアスカの知人の子だった。同年代と言うこともあって仲良くなるだろうとアスカが引き合わせたのだ。だが、彼とアグラムは正反対の性格だった。すぐに仲違いするだろうと周囲は認識していたようだったが、アスカの判断が正しかったと思う。度々衝突をしたものの、何年もたっても交流が続いている。
結論の付け方が異なっていても、おそらく根本的な考え方が似ているのだ。だから余計に腹が立つ。
「やはり、御主にしては珍しく本気で信頼しておるのじゃのう」
「何でそうなるんだよ」
「御主が相手をきちんと認識しておるからじゃ。御主は興味のない相手にそう語ったりはしない。まして評価如何はともかく、御主自ら出向いて話をしにいったんじゃ。信頼が無ければできん」
アグラムはむっすりとする。
「ジジイが行けって言ったんだろ」
「御主は己が納得出来ないことは死んでもせぬ。わしに言われたからって納得出来ていないなら行かなかったじゃろう?」
「勝手に決めつけるな。殺すぞ、ジジイ」
「わしはまだ御主に殺されるほど衰えてはおらぬ」
「なら自力でとっととくたばれ」
「無茶をいう子じゃのう」
呆れたように言ったが笑っているような振動が背中から伝わってくる。本気で言っていないと思われているのだろう。
それがどうにも腹立たしい。
本気だったとしても今のアグラムでは彼にはかなわない。初めて彼に襲いかかった時頼も実力も経験も積んでいたが、それでも戦って勝てる気がしなかった。実力的な意味でも、別の意味でも。
「まぁ、何はともあれ御主にも良き友が出来て良かったのう」
「誰が誰の友だ」
「友人や恩人は大事にしておくものじゃよ。……おお、そうじゃ、言い忘れておった」
「……なんだよ」
優しい声で彼が言う。
「おかえり、アグラム」
改めて言われ、アグラムは少し口元に笑みを浮かべた。
「おせーよ……」
了