序章
雷の音が鳴り響く上空で、二つの巨大な影が絡み合うようにぶつかり合っていた。
やがて片方が雨雲を切り裂いて落ちてくる。
それは四枚の翼を持つ白茶色の竜だった。四本しかない前足の爪は鮮血の色に染まっている。
回転して落ちながら、彼は人の形へと姿を変える。
腹部にはべったりと夥しい血が付いている。彼は固く目を閉じそのまま森の中へと落ちるように消えた。
その姿を探すように、もう一頭の竜が旋回を繰り返す。
退紅色の竜の右目は爪に抉られ、三本の傷が出来ている。
竜は大きく咆吼すると人の姿へと形を変えた。
「くそっ、どこだ……シェンリィス・レミアス! 殺してやる、殺してやる! 殺してやる!!」
狂ったように喚き散らし、彼は天に向かって叫ぶ。
「シェンリィィィィィス!」
雨粒が傷口を洗い流そうとしているかのように降り注ぐ。
鮮血と混じった赤い雨が森へと降り注ぐ。
「簡単に死ぬなよ……てめぇが死んでいいのはなぁ……俺…の……」
言い切るよりも早く男の意識はそこで途絶える。
力と魔力を失った身体は、吸い込まれるように森へと落ちていった。
無慈悲な雨はなおも降り注ぎ、鈍色の空は時折紫に染まっていた。
錆赤歴52年。竜王「赤妃」の眠りにより、星見達が王の「選定」に入ってから二十年あまりが過ぎた時のことだった。
※ ※ ※ ※
岩の上に座り手を伸ばすと、呼びかけに答えるように彼の回りに鳥が集まってきた。餌も持っていない人に鳥がそれほどまで懐くのは珍しいことだった。
ましてそこは竜の谷と呼ばれる場所。ここに住む人の形をしたものは竜であり、本来外の動物は怯えて近づこうともしない。けれど少年が呼びかけると森の動物たちはいくられも集まった。
「や、おはよ」
言うと鳥たちが答えるように鳴く。
「昨日の嵐、大丈夫だったか? トリ子さんの卵は……あー、なら良かった」
にっ、と少年は笑う。
明るく人懐っこい表情だった。どこか悪戯好きそうな、それでいて仲間想いの表情。少し垂れた金色の瞳は優しく、戦闘民族と呼ばれる竜族とは思えないほど穏やかな色を湛えている。
「メーメは? 子供生まれた? ……わ、マジで? お、じゃあ見に行かないとな。一緒に行く奴この指とーまれ」
言って付きだした指先に一匹の鳥が止まり、二匹目が押し出すようにして止まろうとした瞬間、空いた指先に三匹目が止まった。
彼はけたけたと笑う。
「ん、いーよ、みんなで行こう」
立ち上がった彼の肩と頭の先に鳥が止まる。
鳥を乗せたまま、彼は森の中を歩く。
道などほとんど無い道だったが、所々に出ている岩の上を渡るように飛び跳ねながら彼は進む。
人間ならば険しい山道に進むことを躊躇うが、彼にとっては庭のようなものだった。どこに何があるかを熟知しているのだ。
だが、前日に雨が降っていたことを彼はすっかり失念していた。
「おっと……」
濡れた岩に足を滑らせ、そのまま彼は下へと転落する。
危険を察知して鳥が大きく羽ばたいた。
「いったー、あー変なトコ打った」
強打した腰をさすりながら彼は起きあがる。
「?」
不意に見覚えのない色を認めて彼は目を瞬かせた。
それは紛れもない人の形をしたもの。
緑の衣服はぐっしょりと濡れ、うつぶせになっている状態の身体の下から微かに血の匂いを感じる。
人間で言えば二十前後の年齢。竜として二百を超えたくらいだろうか。独特にまとめられた髪と、前髪に付けられた管状の髪の毛が妙に印象的だった。
少年は彼の身体を抱き起こすようにして見る。
意識こそ取り戻さなかったが、青年が微かに身じろぎをした。
少年が満面の笑みを浮かべる。
「落とし物、はっけーん!」