表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

名もなき関係

朝なのか、夕なのかはわからなかった。


空は相変わらず灰色で、光は均一に広がっている。時間の区切りは、もはや意味を持たない。ただ、光があるかないか、それだけだった。


私は、海のそばに座っていた。


波が来る。


砕ける。


返る。


その繰り返しを、“同じ”とも“違う”とも思わない。ただ、その瞬間ごとの動きとして、そこにある。


時間も、同じだった。


過去から連なって今がある、という感覚はない。だが、完全に断絶しているわけでもない。微かな残響のように、何かが残っている。


記憶。


あるいは、その痕跡。


それが、必要なときだけ浮かび上がる。


名前。


顔。


言葉。


そして――。


人。


私は立ち上がった。


理由はない。


ただ、その瞬間にそうした。


足が動く。


岸から離れる。


都市の方へ向かう。


戻る、という感覚ではなかった。


行く、でもない。


ただ、その方向に歩く。


それだけ。


途中で、ドローンの残骸が目に入った。半ば砂に埋もれ、動く気配はない。


私はそれを見て、一瞬だけ“何か”を思い出しかけた。


だが、それはすぐにほどけた。


必要ではなかった。


歩く。


風が吹く。


視界が揺れる。


すべてが、その都度新しい。


やがて、都市の外縁にたどり着いた。


あの金属扉は、開いたままだった。


私は中に入る。


通路は静かだった。


警報は、もう鳴っていない。


あるいは、鳴っているのかもしれないが、それを“継続した音”として認識していないだけかもしれない。


遠くで、人の気配がした。


足音。


複数。


こちらに近づいてくる。


私は立ち止まらなかった。


そのまま歩く。


やがて、角を曲がった先で、数人の監査官と向き合った。


黒い制服。


無機質な表情。


彼らは一斉に、こちらを認識する。


《対象個体、識別開始》


声が響く。


だが――。


すぐに、わずかな沈黙が生まれた。


《識別不能》


その言葉が、はっきりと聞こえた。


監査官たちの動きが止まる。


判断ができない。


対象が“同一個体として確定できない”。


連続していない。


だから、捕捉できない。


私は、その間を通り過ぎた。


誰も、止めなかった。


止められなかった。


通路を進む。


見慣れたはずの構造が、まったく違うもののように見える。


だが、それを“違う”とすら思わない。


ただ、ある。


それだけ。


中央区画に近づく。


人の数が増える。


だが、誰も私を特別視しない。


認識されない。


あるいは、認識されても“繋がらない”。


だから、意味を持たない。


私は歩き続ける。


やがて、広い空間に出た。


中央アーカイブ局。


かつての“私の場所”。


人々が行き交い、端末が並び、情報が流れている。


その中で。


私は立っていた。


そして、ふと気づく。


ここにいる人々。


彼らもまた――。


連続していない。


ただ、それを“連続しているように扱っている”だけだ。


その事実が、静かに広がる。


恐怖はなかった。


優越もない。


ただ、理解。


そして――。


ほんのわずかな、温度。


私は、近くにいた一人の人物を見た。


ミナセだった。


彼女は配布棚から吸水布を抜き取りながら歩いていて、私の濡れた袖口を見て足を止めた。認識より先に、身体が反応したのだろう。彼女は私を“ノア”として捉えられないまま、それでもまっすぐこちらへ来た。


「……寒そう」


それだけ言って、彼女は布を差し出した。


私は受け取ろうとして、彼女の指先に触れた。あたたかかった。たったそれだけの温度が、妙に鮮明だった。


ミナセはわずかに眉を寄せる。何かを思い出しかけた顔だった。昼休みにストローをくわえたまま、「整合性って生活のことなんだよ」と言ったときと同じ、現実に足をつけた目だった。

それから、確かめるみたいに左の耳たぶへ触れた。


「どこかで……」


言葉はそこで切れた。続かない。続ける必要もない。


私は小さく会釈した。彼女も、ほんの一拍遅れて頷いた。


それだけでよかった。


連続していなくても、関係は起こる。名札も記録もなく、ただ濡れた袖と差し出された布のあいだに。その一度だけでも、たしかに。


私は中央の空間を抜ける。


光が差し込む。


都市の内部に、外の光が入り込んでいる。


境界は、もう意味を持たない。


内と外。


過去と現在。


私と他者。


それらはすべて、固定されたものではない。


ただ、関係の中で一時的に立ち上がるものだ。


私は、立ち止まる。


そして、空を見る。


灰色の空。


その向こうに、何があるのかはわからない。


だが、それを“知る必要”もない。


そのとき、ふと。


言葉が浮かんだ。


「私は――」


続きは出てこなかった。言葉にした途端、それはまた古い形に戻ってしまう気がした。灰色の光が床に落ち、濡れた袖口から、遅れて冷えがのぼってくる。


名を持たなくても、記憶に繋がらなくても、さっき触れた指先の温度だけは消えなかった。関係は、長く続くことによってだけ生まれるのではないのかもしれない。ただ一度、そこに触れることでも。


私は、ここにいる。そう思った、というより、その一瞬が確かにあった。遠くで波の音がした。


(終)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ