糸
窓を打つ雨粒が、ガラスの表面で不規則な軌跡を描いては落ちていく。
私はモニターから目を離し、その無秩序な水の流れをぼんやりと見つめた。ディスプレイの中では、有機化学の分子モデルと、デジタル信号処理のグラフが、無機質な光を放って並んでいる。
「普遍的な三角形、か」
私は小さく呟き、手元のタブレットにスタイラスペンで適当な三角形を描いた。
直角三角形、二等辺三角形、あるいはひどく歪んだ不等辺三角形。あれこれ想像し、描いてみるものの、それらはどれも具体的な辺の長さや、特有の角の大きさを持っている。紙の上にインクで描かれた瞬間、あるいはピクセルとして画面に表示された瞬間、それは「特定の」三角形へと堕落する。具体性とは、すなわち特有性だ。だからこそ、現実世界に存在する具体的な三角形は、決して普遍的ではあり得ない。
真の普遍的な三角形とは、辺の長さや角の大きさが不確定なままで、「内角の和が180度である」という概念だけを内包した純粋な情報でなければならない。しかし、そんなものはどこにも実在しない。私の心の中、あるいは計算式の彼方には確かに「普遍的な三角形」という概念が存在するのに、物理世界にはその居場所がないのだ。
思考はさらに身近なものへと滑っていく。
たとえば、鳥だ。
夕暮れの電線にとまるカラスも、画面の中で角張って動く鶏も、私たちはためらいなく「鳥」と呼ぶ。そこに最初から普遍的な“鳥”があるのではない。個々の具体的な像を、私たちが後から同じカテゴリへ束ねているだけだ。
そう、普遍的なものなど、この世界のどこにも存在しないのだ。
ただ「もの」がそこにあるから、私たちが後からそれに普遍性を与え、混沌とした世界を要素に分割し、名前をつけているに過ぎない。事物に先行するイデアはない。同じ木から落ちた二つのリンゴでさえ、宇宙の視点から見れば、それらを結びつける「糸」などどこにも存在しないのだ。
では。
私という存在を繋いでいる「糸」は、どこにあるのだろうか。




