第3話:【リリス】魔導書の迷宮
魔王城の北側にそびえる孤塔。その最上階にある書庫は、吸い込んだ光をすべて飲み干すような、奇妙な暗がりに満ちていた。
天井まで届く書棚には、先代魔王が蒐集したという、羊皮紙の焼ける匂いと古い血の臭いが染みついた魔導書がぎっしりと詰め込まれている。
「……暗いわ。もっと明かりを点けなさい、ゼノ」
リリスは、重厚な机の前に座り、目の前の男を睨みつけた。
ヴォルクとの訓練で負った筋肉痛が、座るたびに背筋を走る。その「痛み」の余韻が残る中で、今度はゼノによる魔術講義だ。リリスの幼い神経は、常に張り詰めた弦のように震えていた。
「おや、リリス様。魔王となるお方が、闇を恐れるのですか? くくっ、それは傑作だ」
ゼノは影の中から溶け出すように現れると、リリスの背後に音もなく立った。
彼の指先が、リリスの項に触れる。
「っ……!?」
氷のように冷たい感触。リリスの肌には、反射的に「嫌悪」による鳥肌が立った。だが、逃げることは許されない。ゼノの指からは、どろりとした、粘りつくような魔力が流れ込んでくる。
「魔術とは、イメージの具現。……まずはご自身の内側にある『海』を感じてください」
ゼノの声が耳元で囁かれる。
リリスが目を閉じると、次の瞬間、視界が真っ白に染まるほどの「驚愕」が彼女を襲った。
自分の体の中心に、巨大な、あまりに巨大な「魔力の塊」が渦巻いているのを感じたのだ。それは穏やかな海などではなく、すべてを飲み込み、叩き潰そうとする荒れ狂う嵐のようだった。
(な、に……これ……お父様の……?)
あまりの質量に、リリスの心臓が激しく脈打つ。呼吸が止まり、胸の奥が物理的に圧迫されるような「恐怖」に、リリスの指先がガタガタと震え出した。
「おや、溺れそうですか? なら、私が助けてあげましょう。……ただし、少しばかり強引に、ね」
ゼノがリリスの背中に掌を当てた瞬間、彼女の体内に「異物」が突き刺さった。
ゼノの鋭い魔力が、リリスの魔力回路を無理やりこじ開け、循環を加速させる。
「あ、が……っ、はあ……っ!」
全身の血管が焼き切れるような「激痛」。だが、その痛みの直後に、爆発的な「快感」が脳を焼いた。
抑え込んでいた力が解放され、指先から溢れ出す。
ドォォォン! と地響きが鳴り、書庫の灯火が一斉に消え去った。
完全なる闇。
だが、リリスの瞳だけは、深紅の光を放っていた。
彼女の魔力が、周囲の空間を侵食し、古びた魔導書たちが意志を持ったように宙に舞い上がる。
「……これが……私の……力……?」
己の内に眠っていた強大すぎる力への「畏怖」。そして、それをわずかでも御せたことへの、底知れない「愉悦」。
リリスは荒い息をつきながら、自身の掌を見つめた。そこにはまだ、消え残る魔力の火花が弾けている。
「……素晴らしい。やはり貴女は、私が壊したくなるほどに完璧な『卵』だ」
暗闇の中で、ゼノの瞳だけが金色に不気味に光っている。
彼はリリスの前に跪き、彼女の泥とインクで汚れた手を、恭しく、執拗に取った。
「リリス様。今の貴女は、まだ自分の魔力に振り回されているに過ぎない。……いずれ、この私をその魔力で屈服させてくださる日を、死ぬほど楽しみにしていますよ」
ゼノの言葉には、狂気的な「期待」がこもっていた。
リリスは、彼の手を無造作に振り払った。
「……馴れ馴れしく触らないで。……次は、もっと上手くやってみせるわ」
強気な言葉を返したが、リリスの胸の鼓動はまだ静まらない。
ゼノという男への拭いきれない「薄気味悪さ」。けれど、彼が教えてくれる「力」の甘美な味に、リリスの魂は確実に抗えなくなっていた。
窓の外、魔界の月が薄雲から顔を出す。
少女の小さな体の中に、巨大な魔王の影が、確実に、そして歪に育ち始めていた。




