第2話:【小夜】常夜の食事
深い、深い眠りだった。
意識が浮上する感覚は、まるで重たい水底から水面へと、ゆっくりと押し上げられるようだった。
小夜が最初に感じたのは、頬に触れるものの「柔らかさ」だった。村の家で使っていた、藁の混じった硬い煎じ布団ではない。滑らかで、吸い付くような、それでいて羽毛のように軽い、白い絹の感触。
「……っ、ふ……」
肺の奥に溜まった古い空気を吐き出すように、小さく息を漏らす。
まぶたを開けると、そこには見たこともない高い天井があった。透かし彫りが施された梁からは、淡い光を放つ魔石の灯火が吊るされ、部屋全体を穏やかな琥珀色に染めている。
(……ここは、どこ……?)
混乱が、静かに脳内を浸食していく。
祭壇の冷たい岩肌。麻縄が食い込む手首の痛み。村人たちの冷酷な眼差し。それらが濁流のように思い出され、小夜の身体は反射的にガタガタと震え出した。
自分は死んだのだろうか。あやかしに喰らわれ、ここは黄泉の国なのだろうか。
恐怖に支配され、シーツを握りしめた指先が白く強張る。心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が背中を伝った。
その時、重厚な扉が静かに開いた。
「……起きたか」
地響きのような、低い声。
現れたのは、山のような体躯を持つ男――琥珀だった。
小夜の全身に、戦慄が走る。昨夜、自分を軽々と抱え上げた、あの恐ろしいあやかし。彼は大きな盆を両手に持ち、音もなくベッドの傍らまで歩み寄ってきた。
「ひっ……!」
小夜は逃げるようにベッドの隅へ身を寄せ、膝を抱えて小さく丸まった。
「……食え。昨夜から何も口にしてねえだろ」
琥珀が差し出したのは、湯気を立てる木製の椀と、色鮮やかな果実が盛られた皿だった。
ふわりと、香ばしい出汁の匂いが鼻腔をくすぐる。それは、小夜がこれまで嗅いだこともないほど、芳醇で「温かい」匂いだった。
だが、小夜は震えながら首を振った。
「い、いりません……。私のような、生贄に……こんな、もったいないものは……」
村では、生贄に決まった日から、小夜に与えられる食事は日に一度の腐りかけた粥だけだった。「どうせ死ぬ者に食わせる分はない」という理屈だ。それが当たり前だと思っていた。
琥珀の金色の瞳が、不機嫌そうに細められる。その眼光の鋭さに、小夜は「怒らせてしまった、殺される」と直感し、ぎゅっと目を閉じた。
「……毒なんて入ってねえよ」
意外なほど、穏やかな声だった。
琥珀は大きな身体を窮屈そうに折り曲げ、床に膝をついて小夜の視線に高さを合わせた。彼は無造作に匙を手に取ると、椀の中の汁を一口すすってみせる。
「ほら。……熱いうちに食わねえと、翡翠の奴がうるせえんだ。『小夜ちゃんの身体を冷やすなんて万死に値する』とかなんとか、あいつは極端だからよ」
琥珀の大きな手が、震える小夜の手に、そっと匙を握らせた。
岩のように硬い手のひら。だが、そこから伝わってくるのは、驚くほど確かな熱だった。
小夜は恐る恐る、匙を椀に浸し、琥珀色の汁を口に含んだ。
「っ……」
じわりと、舌の上で旨味が広がる。喉を通る熱が、冷え切っていた内臓を内側から優しく解かしていくようだった。
一口。もう一口。
止まらなかった。空腹という生理的な欲求が、恐怖を塗り替えていく。
小夜は無我夢中で食べ進めた。琥珀はそれを、急かすこともなく、ただ黙って見守っている。
「……お、美味しい……です……」
気づけば、小夜の頬を涙が伝っていた。
美味しいものを食べて、涙が出るなんて知らなかった。
生贄として扱われ、人間としての尊厳を削り取られてきた彼女にとって、この「温かい食事」は、どんな言葉よりも深く「お前は生きていていい」と肯定されているように感じられたのだ。
「……そうか。なら、もっと食え。その果実も、神域でしか採れねえ特別なやつだ。甘いぞ」
琥珀が、武骨な指先で果実を一つ摘み、小夜の口元へ運ぶ。
小夜は戸惑いながらも、その果実を食んだ。口の中で弾ける、蜜のような甘さ。
「……ふふ」
不意に、小夜の口から小さな笑みが漏れた。
笑った自分に、自分自身が一番驚く。昨日まで、死ぬことしか考えていなかったのに。
琥珀はそれを見て、満足げに鼻を鳴らした。
「翡翠や白銀は、お前を『愛でるべき宝』として扱いたがるが……俺は、まずその細い腕に肉をつけさせるのが先だと思ってる。……いいか、小夜。ここでは、誰もお前を飢えさせねえ。お前が望むなら、好きなだけ食って、好きなだけ寝てりゃいいんだ」
琥珀の言葉は、飾りがなく、不器用だった。
けれど、その言葉の裏にある「守護」の意志は、小夜の凍てついた心を、陽だまりのように温めていく。
「琥珀……様……」
「様なんてつけるな。琥珀でいい」
「……はい、琥珀さん」
小夜は小さく頷き、もう一度、温かいスープを啜った。
窓の外では、神域の常夜の森が静かにざわめいている。
かつての絶望は、もうここには届かない。
小夜は初めて、明日の朝が来ることを「怖い」と思わずに、意識を微かな眠りへと沈めていった。




