第1話:【小夜】あやかしの生贄
湿り気を帯びた夜の風が、死装束の薄い絹をなでる。
小夜の肌には、すでに鳥肌が立ち並んでいた。それが夜の冷気のせいなのか、あるいは数刻後に訪れるであろう「死」への本能的な忌避感によるものなのか、自分でも判然としない。
背後にそびえるのは、苔むした巨大な岩肌。そこに打ち込まれた鉄の環に、小夜の両手首は固く縛り付けられていた。
「……っ、う……」
手首を動かそうとすれば、麻縄が皮膚を削り、じりじりとした焼けるような痛みが走る。その痛みすら、今の小夜にとっては「生きている証」というよりも、ただ不快で、嫌悪すべき苦痛に過ぎなかった。
祭壇の下方からは、松明を掲げた村人たちの唱和が聞こえてくる。
「……どうか、我らが村の災厄を。この娘の命で、御神の怒りを鎮めたまえ……」
祈りの形を借りた、呪詛だ。
小夜はその声を聞きながら、胃の奥が凍りつくような冷えを覚えていた。かつて自分に微笑みかけてくれた隣家のおばさんも、共に手毬を突いた友人も、今はただ、小夜を「便利な捧げ物」として見上げている。
村を守るために、誰かが死なねばならない。その「誰か」が、親のない小夜に決まった時、村人たちの瞳に宿ったのは安堵の色だった。あの時の、煮え湯を飲まされるような驚きと絶望を、小夜は一生忘れることはないだろう。――いや、その「一生」も、あと数刻で終わるのだが。
不意に、周囲の空気が変わった。
松明の火が激しく爆ぜ、一瞬にして村人たちの声が消える。
いや、消えたのではない。彼らは喉をかきむしり、声も出せずにひれ伏していた。
圧倒的な「圧」だ。
重く、どろりとした気配が、霧と共に山の上方から降りてくる。
小夜の心臓が、肋骨の内側を激しく叩き始めた。ドクン、ドクン、と耳の奥で自分の血流がうるさいほどに鳴る。
(……来る。あやかしが、私を喰らいに来る)
恐怖で視界が白く霞み、呼吸が浅くなる。酸欠で頭がふらつく中、小夜は朦朧とする意識で、霧の中に立つ「影」を見た。
それは、一人ではなかった。
三つの、異なる気配。
「……随分と、粗末な扱いを受けているな。我らへの捧げ物のくせに」
低く、地響きのような声が響いた。
霧を切り裂いて現れたのは、身の丈をゆうに超える大太刀を背負った、筋骨逞しい男――琥珀だった。
彼の瞳は、暗闇の中で獣のように金色の光を放っている。その視線が射抜くように小夜を捉えた瞬間、彼女は文字通り蛇に睨まれた蛙のように、指先一つ動かせなくなった。肉を裂かれ、骨を砕かれる光景が脳裏をよぎり、小夜の頬を冷たい汗が伝う。
「やめなよ、琥珀。そんなに睨んだら、この子が壊れてしまう」
鈴を転がすような、あまりに甘く、透明な声。
次に現れたのは、翡翠だった。
月の光を吸い込んだような銀の髪と、幻想的な着流し。彼は小夜に近寄ると、ひどく悲しげな眼差しで、彼女の縛られた手首に触れた。
「可哀想に。こんなに冷えて、傷だらけだ。……大丈夫だよ、もう痛いことは何もないからね」
彼の指先が触れた瞬間、小夜は弾かれたように身を震わせた。触れられた場所から、熱いほどの「温もり」が流れ込んでくる。それは、小夜が人生で一度も経験したことのない、全肯定の慈愛だった。
嫌悪していたはずの死の直前に、これほどまでに清らかな存在に触れられる皮肉。小夜の瞳から、堪えていた涙が一粒、こぼれ落ちた。
「……魔王が消え、理が揺らいでいるというのに。人間共は相変わらず、己の保身のために無垢な魂を差し出すか」
最後の一人――白銀が、静かに歩み出た。
彼が姿を現した瞬間、周囲の空間そのものが凍りついたような錯覚に陥る。漆黒の法衣を纏い、端正な顔立ちに氷のような冷徹さを湛えた男。
白銀が小夜の前に立つと、彼女は息をすることすら忘れた。彼の背後に広がるのは、無限の闇。それは、深淵そのものだった。
白銀は細い指を伸ばし、小夜の顎をゆっくりと持ち上げた。
「名は何という」
「……さ、よ……」
掠れた声で答えるのが精一杯だった。
白銀はその名を噛みしめるように目を細め、ふっと唇の端を歪める。それは、慈悲ではなく、捕食者が獲物を選定した際に見せる、残酷なほどの独占の微笑だった。
「小夜。お前は今日、一度死んだ。……そして、私のものとして生を授かる」
白銀が軽く指を弾くと、小夜を拘束していた麻縄が、まるで灰のように崩れ去った。
支えを失った小夜の身体が、地面に崩れ落ちる。
だが、その膝が土に触れるより早く、琥珀の屈強な腕が彼女を抱き上げた。
「うわっ……!?」
咄嗟に声を上げる小夜。琥珀の身体は岩のように硬く、だが、その体温は驚くほどに熱い。
「……大人しくしてろ。落としちまうだろうが」
ぶっきらぼうな声。だが、その腕の中に込められた力加減は、小夜を傷つけないよう細心の注意が払われている。
琥珀が小夜を抱えたまま背を向けると、白銀と翡翠がその脇を固めるように歩き出す。
彼らが向かうのは、村へと続く下り道ではない。
深い霧に閉ざされ、人間が足を踏み入れることを禁じられた、山のさらに奥深く。
「あの……村は、どうなるのですか……?」
小夜が震える声で尋ねると、白銀が振り返らずに答えた。
「知ったことか。生贄を失ったあの村が、飢えようが滅びようが、今の貴様には関係のないことだ」
冷酷な言葉。
だが、その言葉を聞いた瞬間、小夜の胸の奥で、何かがパチンと弾けた。
(ああ……私は、もうあそこに戻らなくていいんだ)
自分を捨てた場所。自分を殺そうとした人々。
そこからの解放。
小夜は琥珀の胸に顔を埋め、意識を暗闇へと委ねた。
背後で、村人たちの悲鳴が遠ざかっていく。
霧の向こう側――神域へと続く道は、不気味なほどに美しく、月明かりに照らされていた。
小夜の新しい運命は、そこから始まったのである。




