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滴る音

作者: 夜星 灯

 蝉の鳴き声が夏をけたたましく知らせる頃のこと。容赦なく照りつける日差しは、日傘を持った人にも、日傘を持たぬ男——如月蓮の頭上にも等しく降りそそぐ。そのせいでぶわりと湧き上がる汗が、熱のこもったアスファルトに吸い込まれていく。


「…ふぅ」


 なんとなく吐いた息は、冬とは違って痕跡を残さず空気に混じる。吐いた息よりも、夏の茹だるような気温のほうが温度が高いのだろうかという疑問に答えてくれる人はいなさそうだった。


「こんにちは」


 朗らかな声で迎えられた店内は、エアコンが効いていて涼しかった。自動で閉まるドアの向こうに、蝉の声が取り残されていく。案内されるままに椅子に座ると、対面に一人の男性が座った。


「——如月様。本日物件案内を担当いたします、長谷川と申します」


 そう名乗った男は、蓮にとって少しだけ几帳面で神経質そうだなという印象を抱かせた。


「それで、本日はどのような物件をお探しですか?」


 そう問われて、蓮は少しだけ考える。お目当ての物件は、そこそこ安くて、そこそこの広さがあるもの。それに加えてトイレと風呂が別であればなおよし。それぐらいの条件だった。けれど、蓮は少し前に聞いた、とあることについても興味があった。だがそれは今聞くことだろうか?そう考えて、そのタイミングではなかろうともう一つの興味は一度仕舞い込むことにした。


「——なるほど。それでしたら、いくつかご紹介できそうなものがございます」


 そう言った長谷川は昔ながらのやり方を好むのか、分厚いファイルを持ってくると、蓮の前にいくつかの紙を並べた。


「こちらは2Kの物件ですね。お部屋が2つある分、お値段は多少高いのですが、お風呂とトイレは別となっております」

「なるほど。次のを伺っても?」

「お次は、1K8畳のお部屋ですね。トイレとお風呂は一緒になっておりますが、管理費が相場よりもお安く……」


 蓮の無愛想にも感じる淡々とした返答にも、丁寧に長谷川は付き合ってくれる。でも、どの物件も蓮の心を動かしてくれるものはなくて。


「すみません、この物件も……」


 そう言いかけたとき、長谷川の持つファイルから見える、禁の印鑑のついた付箋がやけに気になって。考えるよりも先に、蓮の口は言葉を紡いでいた。


「それって、事故物件って呼ばれる物件がまとめられてるんですか?」


 と。昨今、よく聞く事故物件。事故物件といっても、必ずしもお化けが出るわけではないという。建築上事故物件にあたる、とか、そういうのもあるらしい。長谷川は瞠目した後、薄っすらと笑みを浮かべて。


「まさか。事故物件ではないですよ」


 ただ一言。あっさりとそう言いのけて、ファイルを蓮から見えない位置へと遠ざける。それが不自然に見えた蓮は、ふとひとつの閃きを得た。


「——なら、そのなかに俺の条件に当てはまりながら、相場よりうんと安い物件はないですか?」

「ございます」


 諦めたようにため息を吐いた長谷川は、ファイルを再び手元に戻すと、一枚の紙を机上に置いた。2K、風呂トイレ別。敷金礼金はなし、家賃は、


「月、5万……?」


 23区内でその条件は明らかに異質だった。何かある、と言外に知らせてきている。それなのに、告知義務にあたるような特記事項ありの文言は紙面上には見当たらなくて。


「この物件、前の入居者は……?」

「私が担当することになったのは最近なのですが、前の担当者からは3年前に2ヶ月で出て行ったと聞いています」

「……そうですか」


 蓮は、前の担当者にどこか含みがあるような気がした。それに、不動産業界は人の入れ替わりが激しいと聞く。この物件が原因かどうかはわからないが、もう既にこの不動産屋にはいないのだろうなと、蓮は思った。


「一度、内見に行きたいです」

「……わかりました。では、」


 内見に行きたい、そう言った蓮を信じられないものでも見るかのように見た長谷川は、それでもすぐに表情を取り繕った。あくまで和かな表情を作り、蓮の内見の予定を組み立てていく。とはいっても、この物件はファイルの奥底に隠すように仕舞うレベルのものだから、長谷川の予定さえ合えばすぐにでも、という形になった。


「それでは1週間後、お待ちしております」


 その言葉に見送られて、蓮は不動産屋を出た。手の中には、例の物件の紙を持って。


「……そうだ」


 帰宅した蓮は、例の物件のことがどうしても気になって、ブラウザの検索窓にとある単語を打ち込んだ。そうしてヒットしたのは、かの有名な事故物件検索サイト。それを無言で開いて、住所を打ち込む。ドキドキする心とは裏腹に、地図上には何もないことを示すように、変化はなくて。


「はー、つまんねー」


 何もないのにドキドキさせられたことを悔しがるように、蓮はベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。何もないのだ、ただのお買い得物件だったのかもしれない。そう思うと、このドキドキを返せと誰かに言いたくなるけれど。その考えがどこか甘かったのかもしれないと、内見した日に蓮は思い直すことになったのだが。


 *


 内見当日。蓮はまたしても茹だるような暑さに見舞われながら、不動産屋へと向かった。無機質な音と共に開く自動ドアの向こう。スーツを着こなした長谷川が、頭を下げる。その刹那、蓮には長谷川が苦々しい表情を浮かべていたように見えた。


「——お待ちしておりました」


 淡々とした、温度の無い歓迎の言葉。この間来た時は、もう少しだけ人間味のある出迎えの言葉だったような。そう考える蓮に向かって、長谷川は社用車に誘導するためにだろう、自動ドアの扉へと手を翳して、扉を開けた。


 目的の物件へは車で20分ほど。その物件は駅近とは言わないまでも、然程駅までは遠くない。自転車を使うまでもない、といったところ。車の中には、妙に居心地の悪い沈黙が漂っていた。


「……正直に申し上げますと、今回の物件はおすすめできません」


 沈黙に耐えきれなかったのか、不意に長谷川が沈黙を破った。内容は、予想通りと言えば予想通りのもので。蓮は心の中でため息を吐いた。


「それは、どうしてです?」


 蓮の問いかけに、長谷川は口籠る。そうして、ややあってからぽつりと言葉を落としたのだ。


「滴る音がするのです」

「は?」


 言葉の意味が理解できなかった蓮が聞き返したタイミングで、車がゆっくりと止まる。長谷川は蓮のこぼした言葉を無かったことにしたのか、蓮を降ろすために車の扉を開けた。


 ガチャン


 やけに重々しく聞こえる錠の音。その後に回されたドアノブはギィと年季の入った悲鳴をこぼした。


「こちらが、貴方様がご希望されていた物件になります」


 突然名前を呼ばれなくなったことに、蓮はどこか嫌な予感を覚えた。長谷川に続くように、扉の向こうへと一歩踏み出すと、じっとりとした湿り気を帯びた臭いがした。


 ぴちゃん、ぴちゃん


 キッチンの水道から水の滴る音がする。その音を聞いて、蓮はほんの数十秒前、車で長谷川が滴る音がするとこぼした事を思い出した。


 ——まさか、こんな音が怖いと言っているのか?いい歳した大人が?


 多少ガッカリした気持ちを隠さず、蓮は入居に対して前向きと思ってもらえるような言葉を紡ぐ。


「このお隣さんってどんな人ですか?」

「…老夫婦です。穏やかなお人柄とお伺いしております」

「そうなんだ…。じゃあ、大家さんはどんな人?」

「別の物件も持っておりまして、」


 当たり障りない会話。それを続けながら、蓮は物件内を見て回る。一部屋の陽当たりはそこそこ、広さは物足りないくらい。もう一部屋は値段の割に広く、陽当たりも良い。開かれている窓は、換気のためにだろうか。窓が開いているだけで、開放感があって良い。そう思いながら、蓮はトイレを覗く。新品同様のトイレは、まさか入居者が短時間で出ていくせいか?そんなことを考えて。試しに長谷川に聞いてみた。


「トイレ、随分と新しく見えますね」

「ああ、それはトイレの便座とかを変えたからです。少し前は自動洗浄だったのですが……」


 言い淀む長谷川に、蓮はまたしても違和感を覚える。けれど、その違和感の正体は掴めなくて。続けて風呂場を見る。風呂自体の作りは悪くはないが、トイレとは一転して古めかしく思えた。


「これで一応、全ての部屋をご覧になったと思うのですが……」


 ソワソワとした様子の長谷川に、ひとつ頷きを返す。部屋はどこも綺麗で、1人で使う分にはかなり快適だろうと。トイレも新品同様で、ただ風呂は古めかしい。物件情報を反芻する蓮の耳に、またしても水の落ちる音がする。


 ——ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。


 一定のリズムでずうっと繰り返されるそれ。水回りだけは改修する必要が……?!


 そこまで考えて、蓮はザアッと血の気が引いた。長谷川にぎこちなく笑いかける。


「車に戻ってから、入居するかどうかの返事をします」


 心臓が嫌になるほど跳ね上がり、耳元で鼓動の音がするようだった。長谷川は、蓮の変わりように驚きながら、自分も早く出たかったのか、そそくさと蓮を連れて部屋を後にした。


「長谷川さん!内見時には普通水道が通ってないですよね?!」

「当たり前でしょう。……まさか」

「おはら…!お祓いに行きましょう!!ヤバいですって!!」

「だから言ったでしょう!!皆さん、興味本位で行かれた方はそうおっしゃるんです。いつもお世話になっているところがあるので、このまま一緒に行きましょう」


 長谷川は少しだけ呆れを含んだ声でそう返すと、エンジンをかけた。蓮は、もう二度とあの部屋には、あの物件には近寄るまいと考えながら、振り返る。そうして絶叫した。


 ——出てきた物件の玄関から、建物の入り口まで。濡れた裸足の足跡が続いていたから。


 *


 後日、菓子折りを持って、蓮は改めて不動産屋を訪ねた。ひんやりとした店内は変わらず涼しくて、残暑のじんわりとした暑さを拭い去っていく。時間が経つにつれ、あの日のことも気のせいだったのかもしれないと思えるようになった。だが、蓮に刻まれた恐怖心は嘘じゃない。しばらくは、あの音が聞こえるだけでお守りを握りしめるくらいには、追い詰められていたのだから。


「こんにちは」


 受付のお姉さんが微笑みかける。菓子折りをみえるように掲げると、嬉しそうに笑みが深くなって。


「どなたかへのご挨拶に来てくださったのでしょうか?」


 そう言われて、ひとつ頷きを返して。


「長谷川さんに、先日のお礼をと」


 蓮が言葉にすると、受付のお姉さんの表情が凍りつく。そうして、恐る恐るもう一度要件を聞き直してくる。


「ですから、長谷川さんにお礼を」

「長谷川というのは、几帳面そうな…?」


 ただしくは、几帳面で神経質そうだが。長谷川に対して抱いた印象を当ててきたので、これにも頷きを返す。そうすると、慌てて奥に飛び込んで行ってしまったので、蓮は呆然と入り口にある受付で立ち竦むことになった。


「申し訳ございません、お待たせしました」


 しばらくして、どうしようかと困っている蓮の前に、一人の女性が受付のお姉さんを伴って戻ってきた。花巻というゴールドに輝く印字の名札をした女性の背後で、受付のお姉さんは半泣きと形容しても良いくらいの表情を浮かべていて。疑問に思う蓮に対して、花巻は応接室へと案内をした。


「は?長谷川さんは、既に死んでる?何の冗談ですか?」


 応接室で聞かされた内容は、到底理解ができないものだった。なんせ、あの日蓮の対応をしてくれたおじさん、長谷川が3年前に亡くなっているのだと言っているのだから。


「だって、俺は確かにあの日…!」


 言葉を重ねようとする蓮に向かって、花巻は物件名を告げた。それは確かにあの日、蓮が長谷川と向かった建物の名前で。


「やはり……。長谷川は毎年毎年、あの物件へと誰かしらを連れていくのです。自分が持っていた物件で成約が取れなかったのがあそこだけだったから、悔しかったのでしょうね」


 しみじみとそう言われても、蓮には理解が追いつかなかった。それに構わず花巻は言葉を続ける。


「長谷川は、優秀な人物でした。けれど、それと同時に異常なほど、自分へと厳しい人間でした。そのせいでしょうね、あの物件を抱えて数年経ったある日、突然自殺したのよ。それも自宅のお風呂場でリストカットしてね」


 そのとき、蓮の頭には、あの水の音がこだましていた。


 ——ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。


 あの音がもし水ではなくて、血液が滴る音だとしたら……?そう考えてしまうと、余計にゾッとした。それから蓮は何も考えられなくなって、お菓子を押し付けるように渡すと、そそくさと不動産屋を出た。


 ぴちゃん。


 すれ違いざま、誰かの流した水が、アスファルトに滴る音がした気がした。

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