第九十八章「夜空に浮かぶ願い」
調布市・深大寺の境内は、夕方五時を回ったあたりから、参拝客もまばらになっていく。年末を控えた境内には、まだ紅葉の名残がちらほらと残り、石畳には落ち葉が散っていた。静寂の中に聞こえるのは、時折吹く冷たい風の音と、遠くの本堂から響いてくる僧侶の読経だけ。
悠は、本堂の前に腰を下ろし、目を閉じていた。背筋を伸ばして座る姿は、どこか修行僧のようにも見える。彼の性格は直情型で、何事にも真っ直ぐでストレートだ。だが、そのまっすぐさはときに相手を傷つけてしまうこともあった。明確な目標を持ち、常に自分を高めようと学び続けるが、その姿勢が“近づきづらさ”に変わることもある。
そして今――彼の脳裏には、芽衣子の顔が浮かんでいた。
「久しぶりに静かな場所で会おうって、あなたが言うなんて珍しいね」
その声に、悠はゆっくりと目を開けた。境内の石段を、芽衣子が歩いてくる。落ち着いたグリーンのコートに、首元には白いマフラー。冷たい風にさらされながらも、彼女の歩みには迷いがなかった。
「……ここ、昔来たって言ってたろ。好きだって」
「覚えてたんだ」
「もちろん」
ふたりは自然に並んで腰を下ろす。夕暮れの空はすでに藍色に変わり、境内の灯籠に明かりがともりはじめていた。
「悠くんって、ずっと“前を見て進む”人だよね。振り返ったりしない。でも……」
「でも?」
「ときどき、すごく独りで頑張ってるように見えるの。私がそばにいても、心の中までは踏み込ませてくれないって、思ったことがある」
「……それは、俺自身が怖がってたんだと思う。誰かに踏み込まれるのが怖くて。でも、そんな自分を変えたくて、ずっと学び続けてきた。自分を改善するために」
「……私、悠くんのそういうところ、すごく尊敬してる。でも、完璧にならなくていいよ。弱いとこも、迷ってるとこも、見せてくれたら嬉しい」
悠は、空を仰いだ。夜の帳が下りるその一瞬、空には一番星が小さく光っていた。
「俺、芽衣子に伝えたいことがある。今まで、目標とか理想ばっかり追いかけて、気づいたらお前の気持ちを置いてけぼりにしてた。でも今は、お前と一緒に“同じ未来”を見たいって、本気で思ってる」
「……それって、夢を共有したいってこと?」
「それもあるけど、もっと近くで。日常の中で、お前と一緒に笑って、悩んで、成長していきたいってこと」
芽衣子は、小さく頷いた。
「私もね、最近やっと“完璧じゃなくても大丈夫”って思えるようになったの。あなたの前でなら、失敗してもいいって思えた。だから……私もお願いがあるの」
「なに?」
「これからも、私が“物知りぶってる”とき、ちゃんと突っ込んでくれる?」
悠は吹き出すように笑った。
「それ、俺の役目だったな。……もちろん、任せとけ」
芽衣子も笑い返し、ふたりの距離が一気に近づいたように感じられた。悠はポケットから一冊の小さなノートを取り出す。
「これ、俺の“気づきノート”。最近始めたんだ。毎日一つ、自分の行動とか言葉に対して反省とか学びを書いてる」
「見てもいい?」
「いいよ。最後のページ、今日の分、まだ書いてないけど……今ここで書こうと思ってた」
悠はペンを取り、ゆっくりと書きはじめた。
今日の気づき:
人に伝える勇気は、自分を信じることから始まる。
願いは、言葉にしなければ届かない。
今夜、“夜空に浮かぶ願い”を、一緒に見てくれる誰かがいてくれることが、どれだけ尊いかを知った。
芽衣子は、それを読みながらそっと目を閉じた。
「……すごく素敵な言葉。あなたらしいし、私がずっと聞きたかった言葉」
悠はその横顔を見て、ゆっくりと手を伸ばした。
「これからも、一緒に願いを描いていこう。完璧じゃなくていい。お互いを少しずつ知って、支え合って、進もう」
「うん。じゃあまずは、今日の願い……夜空に浮かべよっか」
ふたりは並んで空を見上げた。星がひとつ、またひとつ、冬の空に増えていく。冷たく澄んだ空気の中で、手と手がそっと重なった。
——夜空に浮かぶ願い。
それは、理想を追うだけじゃない、“誰かと生きる”という現実のあたたかさを知ったふたりが、はじめて同じ夢を語った夜だった。
(第九十八章 完)