第九十七章「雨上がりに芽生える想い」
昭島駅のロータリーには、まだ雨の名残があった。ぬれたアスファルトの上を、駅に向かう人々の靴音がリズムのように響く。傘を閉じた人々の肩には、午後の日差しがようやく差し込み始めていた。
大貴は、昭島モリタウンの裏手にある静かなベンチに座っていた。手には温かい缶コーヒー、視線は前方の曇り空の切れ間に浮かび始めた青空に向けられている。彼の表情にはどこか、自信を失った人間特有の影があった。
彼は“かまちょ”で、誰かと関わることで安心感を得る。進取の気性を持ち、目新しいことにはすぐ手を出す反面、思うように結果が出ないと、途端に自分に価値がないように思えてしまう。そうして何度も、何かを始めては途中で自信を喪失していた。
「……待った?」
大貴が顔を上げると、いろはが傘を畳んで立っていた。彼女の姿は、彼の目にどこか神々しく見えた。内気で、でも自分の感情をきちんと整理して伝えようとする。そんな彼女の姿勢に、大貴はずっと助けられてきた。
「ううん。ちょうど着いたとこ」
「嘘。缶コーヒー、もう半分以上ないじゃん」
いろはは、微笑みながら彼の隣に腰を下ろした。その笑顔には、少しの疲れと、たくさんの優しさが混じっていた。
「……最近、どうしてた?」
「うーん……頑張ってるつもりだったけど、空回りしてばっかりでさ。何やっても手応えなくて。自分のやってることに意味あるのか分からなくなる瞬間があった」
「私も似たようなこと、あったよ。うまくできない自分を、どんどん責めちゃって」
「でもお前は、落ち込んでも前向きに戻れるじゃん。俺なんか、ちょっと何かあるとすぐ自信なくして……誰かに頼ってばっかでさ」
「頼ってもいいんだよ。誰かを頼るって、自分の感情を冷静に見られる人にしかできないことだと思う」
大貴はその言葉に、目を細めて空を見上げた。雲の切れ間から覗いた陽射しが、どこか自分に向けられている気がした。
「……俺、最近、誰かに“喜びを与えられる存在”になれてない気がしてた。でも今、お前の言葉聞いて、ちょっとだけ……“ありがとう”って思えた」
「私も。あなたと話してると、日常の小さな幸せに気づけるの。今日みたいに、雨が止んだ後の空とか」
「雨上がりって、なんかいいよな。ちょっとだけ景色が綺麗に見える。お前もそんな感じなんだよな」
いろはは顔を赤らめ、照れ隠しのようにマフラーを整えた。
「ねぇ、大貴くん。もしこれから先、何かに迷って、自分を責めたくなったら……“私が味方だ”って思ってくれない?」
「……いいの?」
「もちろん。だって私、あなたの“進もうとする姿勢”がすごく好きだから」
大貴は、何かに押されるように立ち上がり、いろはの前に立った。
「俺も、お前のことが好きだ。自分の不安や弱さに、ちゃんと向き合えるところ。内気なのに、俺が一番欲しい言葉をくれるところ」
いろはの頬がますます赤くなった。
「……ありがとう。なんか、震えるくらい嬉しい」
大貴は、ポケットから小さなメモ帳を取り出し、ページを一枚破って彼女に手渡した。
「これ、読んでくれる?」
いろははメモを受け取り、そっと読んだ。
いろはへ
君の“静かな優しさ”に何度も救われた。
誰よりも自分に厳しい君が、俺に微笑んでくれるだけで、世界が少し変わった気がした。
俺は、君に“ありがとう”を伝えることで、前に進みたいと思えた。
これからも一緒に、“雨上がりの空”を見られたらいいな。
大貴より
いろはは手紙を胸に抱き、涙をこらえるように微笑んだ。
「うん、また一緒に見よう。晴れた日も、曇りの日も、全部――一緒に」
ふたりは手をつなぎ、昭島モリタウンの明かりへ向かって歩き出した。
——雨上がりに芽生える想い。
それは、自信をなくした自分たちが、お互いの手の中で“ありがとう”と“好き”を見つけ出した、かけがえのない一歩だった。
(第九十七章 完)