第九十五章「遠い日の記憶を手繰り寄せて」
三鷹市・井の頭恩賜公園の南側にある、木立に囲まれた細道。昼下がりの太陽が差し込む中、落ち葉を踏みしめる音だけが小さく響いていた。翔也はゆっくりと歩きながら、ポケットの中で折りたたんだ手紙の感触を指先で確かめた。
昔から親身な性格だと言われてきた。困っている人がいれば助けるし、話を聞いてほしいと言われれば、どんなに忙しくても手を止めた。それでも、“活発で意見を押し通す”性格が、時に誰かを傷つけてしまったこともある。目の前にいる相手の気持ちに気づかず、自分が信じる道を正しいと思い込んでしまう。翔也はそのことで、何度もひなたとぶつかった。
公園の一角、三鷹の森ジブリ美術館に続く坂の途中にある小さなベンチ。約束をしたわけではなかったが、翔也は自然とその場所へ向かっていた。すると、そこにいたのは、ひなただった。彼女は風に揺れる髪を耳にかけ、手にしていた本を閉じると、静かに立ち上がった。
「……来ると思ってた」
「俺も、お前がここにいる気がしてた」
ふたりは少し照れくさそうに笑い合い、ベンチに並んで座った。目の前には、子どもたちが遊ぶ姿と、それを見守る親たちの穏やかな声。そんな日常の光景が広がっている。
「最近どうしてる?」
「仕事ばっかりだった。でも、ふとした瞬間に思い出すんだ。お前と過ごした時間。あの時、もっとちゃんと話せてたら、何か変わってたのかなって」
ひなたは黙って彼の言葉を聞いていた。そして、ぽつりと呟く。
「私も、自分に挑戦し続けてた。あなたと離れてから、もっと自分を磨こうって決めて……でもね、時々、ただあなたに“よくやったね”って言ってほしいだけだったんだって気づいたの」
「……言えばよかった。素直に“すごいな”って、ちゃんと伝えればよかった」
「あなたは、いつもまっすぐだった。だから、私が自分の意見を言うのが怖くなるくらいだった。でも今ならわかる。あなたは、自分の信じるものを守る強さと、他人の意見を受け止める柔らかさ、両方を持ってたんだって」
翔也は、ポケットから手紙を取り出した。くしゃくしゃになりかけたそれをそっと渡す。
「読んでくれる?」
ひなたは受け取り、静かに開いた。
ひなたへ
君と出会って、自分の未熟さにたくさん気づいた。
意見を押し通すだけじゃ、誰かの心には届かない。
君の言葉や涙に、本当は何度も立ち止まりたかった。
君が努力している姿、挑戦を続ける姿を、誰よりも誇りに思ってた。
でも、その気持ちを言葉にするのが怖かった。
今なら言える。君のことを心から尊敬してる。ありがとう。
翔也
ひなたは読み終えると、少し潤んだ瞳で彼を見つめた。
「……ねぇ、覚えてる?最初に出会った日、あなたがいきなり“君、面白そうだね”って言ったこと」
「ああ。今でも覚えてる。たぶん、あの瞬間から俺、お前に惹かれてた」
「私ね、あのときからずっと、“この人と一緒に未来を作っていけたら”って思ってたんだよ」
翔也は、ゆっくりと手を伸ばし、ひなたの手を包み込んだ。
「もう一度、歩いていけるかな?今度は、お前の意見もちゃんと聞いて、ふたりで選んだ道を」
「うん。あなたとなら、遠い日の記憶も全部、宝物にできる気がするから」
風が木々を揺らし、落ち葉が舞った。夕暮れの空は金色に染まり、ふたりの影を長く伸ばしていた。
——遠い日の記憶を手繰り寄せて。
それは、過去のすれ違いを丁寧に抱きしめたふたりが、“今”を重ねて未来へと踏み出す、優しい再出発の物語だった。
(第九十五章 完)