第九十三章「夜風が運ぶメッセージ」
立川駅周辺は、イルミネーションが灯る夕刻になると、平日にも関わらず多くの人でにぎわっていた。人々の会話が街の空気に溶け込み、ほんのり甘い焼き菓子の香りや、商業施設から流れるクリスマスソングが、冬の風とともに通りを包み込む。
奏は、人の流れを避けるように昭和記念公園の方へと歩いていた。葉を落としたメタセコイアの並木が、彼の影を長く引いていた。コートのポケットに手を入れながら、彼は時折、夜空を見上げる。
「桜美、来てくれるだろうか……」
誰に聞かせるでもなく、呟いたその声は風に流されて消えた。奏は、誰かの意見に固執しやすい。けれどその反面、自分の考えを曲げられない弱さがある。困難を避けたくなる気持ちが強く、誰かに踏み込まれると反射的に身構えてしまう。そんな自分をずっと責めてきた。
けれど、桜美だけは違った。
彼女は奏のすべてを肯定するわけでも、拒絶するわけでもなく、静かに彼と距離を保ちながら、確かに“近くにいる”ことを選び続けてくれた。その優しさが、逆に彼の心を揺さぶり続けていた。
公園の中央付近、小さな池の前にベンチがある。寒空の下でそこに座っていたのは、紛れもなく桜美だった。肩までの髪をまとめ、モカ色のロングコートに身を包み、手にはホットドリンク。彼女はすでに奏の気配を感じていたのか、ベンチに視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……こんばんは」
「来てくれて、ありがとう」
「ううん、あなたがこの場所を選んでくれて、よかった。……落ち着くね、ここ」
「うん。俺も、なんかここだとちゃんと話せる気がして」
ふたりはしばらく黙ったまま、池の水面を見つめていた。風に揺れる水面に反射する光が、言葉の代わりのように彼らの間を漂っていた。
「桜美」
「うん?」
「俺……怖かったんだ。お前みたいに、誰かとちゃんと向き合える人といると、自分の弱さが浮き彫りになる気がして」
「それ、知ってたよ」
「……え?」
「あなた、すごく繊細な人だもの。誰かの気持ちに敏感で、だからこそ時々、ちゃんと向き合うのが怖くなる。私、最初から分かってたつもり」
奏は、まっすぐ彼女を見た。その瞳には優しさと、ほんの少しの寂しさがあった。
「ごめんな。何も言えないまま、勝手に自分の殻に閉じこもって」
「大丈夫。あなたが自分の気持ちをちゃんと見ようとしてくれるなら、私は何度でも待つから」
桜美の声は、夜風と混ざって静かに響いた。
「今日ね……渡したいものがあるの」
そう言って彼女が取り出したのは、小さな折り紙の手紙だった。淡い藍色の紙に、手書きの文字が丁寧に並んでいる。彼女はそれを奏に手渡した。
「……読んでもいい?」
「うん、今ここで」
奏はゆっくりと手紙を開いた。
奏へ
あなたと出会って、私は“自分を優先すること”が必ずしも悪いことじゃないと知ったよ。
人に合わせるだけじゃなく、自分の思いを大切にすること。
それがどれだけ勇気のいることか、あなたを見ていて分かった。
私たち、似てないところも多いけど、不思議と“目標に向かって努力すること”だけは、同じだったよね。
私は、あなたが困難を避けようとしたときも、失敗して落胆したときも、
そのたびに静かに立ち上がる姿を、ちゃんと見てたよ。
夜風が吹くたび、あなたの言葉が聞こえてくる気がするの。
だから私は、あなたのそばにいたいと思った。
これからも、あなたが言葉にできない想いも、ちゃんと聞ける私でいたい。
桜美より
読み終わった奏は、ゆっくりと息を吐いた。
「……こんな手紙、初めてだ」
「私も書いたの初めて。いつもは口で言っちゃうけど、今日はどうしても、言葉よりも想いが伝わってほしくて」
奏は立ち上がり、池の前に一歩踏み出した。そして夜空を見上げた。
「ありがとう。俺も、言葉でちゃんと伝えるよ。お前がそばにいてくれたから、俺は変わり始めてる」
「それで十分だよ。無理して変わらなくてもいい。ただ、“届けたい”って思ってくれたら、それが一番嬉しい」
風がふたりの間を吹き抜けた。冷たいはずなのに、不思議とあたたかさを運んでくるような、そんな風だった。
——夜風が運ぶメッセージ。
それは、口に出せなかった想いが手紙となり、風に乗って、心に届いた瞬間。二人は確かに、同じ未来を見つめ始めていた。
(第九十三章 完)