第九十二章「不器用」
町田駅周辺の人混みは、土曜日の午後になるといつも増す。だが今日は年末が近いせいか、街ゆく人々の足取りもせわしなく、どこか焦りのようなものが漂っていた。ショッピングモールの前では子どもたちが行列を作り、アニメキャラの着ぐるみに歓声をあげている。その光景を遠巻きに見ながら、豪は立ち止まっていた。
彼は“自分のペースで進む”ことを大切にしている。それが、誰かと歩調を合わせることを意味していないと気づいたのは、ずっとあとになってからだった。周囲との調和は心がけていたつもりだ。だが、時折見せるその「静かなリズム」は、彼自身も気づかないうちに他人との距離を作っていたのかもしれない。
今日、彼が向かっていたのは、町田薬師池公園。あまり人に知られていない、静かな池のほとりにある木のベンチ。めぐみと、何度も座った場所だった。
風は冷たく、空気は澄んでいる。公園の池には鴨が浮かび、子どもたちの笑い声が遠くで響いていた。豪がベンチに腰を下ろすと、しばらくしてから、めぐみがゆっくりと歩いてきた。彼女は顔を上げずに隣に座り、手袋越しに両手をぎゅっと握っていた。
「……寒いね」
「うん。来てくれて、ありがとう」
「ううん。私が来たいって言ったんだし」
豪は、ポケットから小さな紙袋を取り出した。中には、手作りのキーホルダーが入っている。二つ。ひとつは、ギターの形。もうひとつは、マイク。かつて二人が一緒に観たライブの帰り道に「いつか私も歌ってみたい」と、めぐみが言ったことを、豪は覚えていた。
「これ……作ったの?」
「不格好だけど」
「……ううん、すごく可愛い」
めぐみの頬が少しだけ赤くなる。けれどそれは寒さのせいではない。豪の手作り、それも彼が人知れず考え抜いて作ったとわかるものが、彼女の心にまっすぐ響いたのだ。
「俺、ずっと“お前のこと、ちゃんと見てる”って言いたかった。でも、言葉にするのが下手で……」
「うん、知ってる。だから私、何度もすれ違ってばかりだった。でも、あなたが何も言わないときも、ちゃんと“感じて”たよ」
「感じてた?」
「うん。あなた、すごく不器用だけど……私がちょっと元気ないときは、さりげなくコンビニで私の好きなチョコ買ってきたり。私が泣きそうなときは、黙って隣に座っててくれたり」
「……そういうの、言葉で伝えなきゃって思ってたけど」
「言葉も大事。でも、行動って嘘つかない。あなたのやさしさは、言葉よりずっと正直だから、私にはそれで十分だった」
風が吹いた。めぐみの長い髪がふわりと揺れる。豪は、彼女が本当に繊細な感情を持っていることを、誰よりも知っている。けれどその繊細さの裏には、いつも「素直になれない」強がりがあった。
「お前って、たぶん“自分を好きになれないとき”あるだろ?」
「……うん。なんでわかったの?」
「見てたから。俺、お前のことずっと見てた。誰よりも、お前が誰かを応援するのに、自分には優しくできないこと、気づいてた」
めぐみは手袋を外して、そっと豪の手を握った。その手は冷たかったが、彼女の手は驚くほど温かかった。
「ありがとう。今日、それ言ってもらえて、本当に救われた」
「俺、不器用だけど……これからも、こうして隣にいさせてほしい」
「うん。私も、あなたのペースに合わせたい。時々、転びそうになるけど、そのときは手、引っ張ってね」
ふたりは静かに笑い合った。池の水面には夕陽が反射し、ふたりの影を一つに重ねていた。豪の胸の奥にずっとあった“成長したい”という願いは、めぐみと出会ったことで初めて形になりはじめたのだと気づいた。
——不器用。
それは、素直になれない自分たちが、行動で愛を伝えるための唯一の手段だった。そして、それがふたりにとっての“希望”のかたちだった。
(第九十二章 完)