第九十章「離れた心」
足立区・東京芸術センターの最上階にある展望ロビー。ガラス越しに広がる夜景は、冬の空気を透かして遠くまで見渡せた。眼下には荒川の流れが細く黒く光り、その先に浮かぶ無数の灯りが、まるで誰かの心の痕跡のように瞬いている。
圭はその一角に立ち、黙って夜の風景を眺めていた。横柄で、誰かに頭を下げることが苦手な性格。それでも、彼には揺るぎない信念があった。「一度心を許した相手には、全力で向き合う」という、他人には見せない頑固さだった。
それが裏目に出たことは何度もある。特に今夜、こうしてここに来る理由になったのも、まさにその「頑なさ」のせいだった。
後ろから、ヒールの控えめな音が近づいてきた。振り返らずとも誰かが来たとわかる。圭の肩が一度、小さく震えた。
「待った?」
その声は柔らかく、それでいてどこか張り詰めていた。
「いや。ちょうど着いたところだ」
「ふうん……そうやって、いつも言い訳みたいに先手を打つよね」
笑美がそっと圭の隣に立った。彼女の視線は夜景ではなく、彼の横顔を見ていた。
「そうかもな。……お前にだけは、かっこつけたいと思ってたのかもしれない」
「かっこつけるより、大事なこと、たくさんあったと思うけど」
圭は何も言い返せなかった。いつもなら反射的に言葉を返すところなのに、今夜の笑美には、どこか“決意”のようなものが宿っていた。
「私ね、ずっと思ってたの。あなたって、感情をぶつけることは得意だけど、本当の気持ちはどこかに隠してるって」
「……隠してたわけじゃない。ただ、どう言えばいいかわからなかっただけだ」
「でも、誰かと一緒にいたいなら、伝える努力って必要だよね?」
その問いに、圭はわずかに表情を歪めた。まるで胸のどこかを突かれたようだった。
「俺は、継続力だけはあると思ってた。どんなに相手が怒ってても、そばにい続ければ伝わるって……でも、それじゃだめだったんだな」
「うん。続けるだけじゃ、心って届かない。言葉にしないまま一緒にいたって、“離れた心”は、どんどん距離ができる」
笑美の声は静かで、冷たくはなかった。むしろ、誰よりも優しかった。それが圭には、余計に堪えた。
「……まだ、お前を想ってる」
「私も、嫌いになったわけじゃないよ。でもね……今のあなたを“支えたい”って思う前に、“もう少し自分を大事にして”って思っちゃう」
圭は、ようやく笑美の方を向いた。彼女の瞳には涙はなかった。あるのは、静かな覚悟だけだった。
「今日、来てくれてありがとう。ちゃんと、話ができてよかった」
「こっちこそ。……ちゃんと伝えられて、少しだけ前に進めそうな気がする」
ふたりはしばらく無言のまま、夜景を見つめた。ガラスに映る自分たちの姿は、かつてのように自然には重ならなかった。それぞれが、ほんの少しずつ違う方向を向いている。
圭はポケットから、小さな箱を取り出した。それは、以前ふたりで出かけた足立市場の帰りに、笑美が「可愛い」と言った小さな香り付きキャンドル。結局、あの時は買わなかったが、彼はこっそり覚えていた。
「これ、受け取ってくれ」
笑美は驚いた表情を浮かべたが、すぐに静かに受け取った。
「……覚えてたんだ」
「ああ。お前の言葉、案外、全部覚えてるよ」
「そういうとこ、ずるいなぁ……」
ふたりは笑った。けれどそれは、もう過去には戻れないことを知っているからこその、少し哀しい笑いだった。
「また、いつか。笑って会えるといいね」
「……ああ。きっと」
——離れた心。
それは、すれ違いの中で気づいた“思いやり”の形。たとえ別々の道を選んだとしても、かつての温かさが、決して嘘ではなかった証だった。
(第九十章 完)