第九章「心の奥深く」
苫小牧の空は、低く垂れこめた雲に覆われていた。遠くから潮の香りが微かに漂い、港の風が冷たく頬を撫でる。
雄哉は苫小牧港のフェリーターミナルのベンチに腰掛け、スマートフォンの画面を眺めていた。時間は待ち合わせの数分前。寒さのせいか、指先が少し冷たく感じる。
「遅かったな」
スマートフォンから目を上げると、美季が息を切らしながら駆け寄ってくるのが見えた。
「ごめん、ちょっと電車が遅れちゃって」
「まぁ、いいけどな」
雄哉は肩をすくめながら立ち上がり、港の方へと歩き出した。
「それにしても、寒いね」
美季がコートのポケットに手を突っ込みながら、足早に並んで歩く。
「苫小牧の冬はこんなもんだ」
「でも、こういう港の雰囲気、嫌いじゃないよ」
「お前、あんまり港町のイメージないけどな」
「うん、でも、広い海を見ると、なんか落ち着く気がするんだ」
雄哉は美季の横顔をちらりと見た。彼女の表情は、どこか遠くを見つめるような静かなものだった。
苫小牧港の埠頭
二人は埠頭の先端まで歩き、静かに海を見つめた。灰色の空の下、波がゆるやかに打ち寄せている。
「ねぇ、雄哉」
美季がふと口を開く。「人って、本当に自分の心の奥を誰かに見せることができるのかな」
「……急にどうした?」
「なんとなく、考えてたの」
雄哉はポケットに手を入れ、冷たい風を感じながら答えた。
「全部を見せるのは、難しいかもしれないな」
「うん、そうだよね」
美季は小さく息を吐いた。「でも、少しずつでもいいから、誰かに知ってもらえるなら、それでいいのかも」
雄哉はしばらく黙っていたが、やがて「……そうだな」と静かに頷いた。
港に響く汽笛
遠くでフェリーの汽笛が鳴った。
「ねぇ、乗ってみる?」
美季がふと提案する。
「どこへ?」
「どこでもいい。ただ、今の気分で」
雄哉は少し考えたあと、口の端を上げた。「いいかもな」
二人はゆっくりとフェリー乗り場へと歩き出す。
——心の奥深く。
すべてを言葉にする必要はない。ただ、共にいる時間が、それを少しずつ埋めてくれるのかもしれない。
(第九章 完)