第八十九章「別れの言葉」
練馬区・光が丘公園。まだ陽が高い午後の時間帯にもかかわらず、冬の公園は人影がまばらだった。薄曇りの空の下、冷たい風が時おり木々の間を抜け、色褪せた落ち葉をさらりと転がしていく。その中を、心は歩いていた。両手をコートのポケットに入れ、足元の落ち葉を避けるようにゆっくりと歩を進める。
彼は“経験を生かす”という言葉の意味を、若い頃より少しだけ深く理解するようになっていた。何かを失うことでしか得られないものがあると知ったからだ。物事を合理的に考え、感情に飲まれることを避けてきた人生。だが、その彼にも、どうしても心に残って離れない“出来事”があった。
今日は、その思いを整理するために、この場所を選んだ。
ベンチに座ると、視線は自然と池の方へ向いた。水面は風に揺れていたが、その揺らぎの奥に、彼は誰かの姿を重ねていた。そこには、いつも寄り添ってくれた理紗の記憶があった。
静かな声が背後から届いた。
「……来てくれて、ありがとう」
振り返ると、理紗がいた。落ち着いた色のコートに身を包み、変わらぬ穏やかな表情で、心の隣に腰を下ろした。
「久しぶりだね」
「……そうだな」
「練馬で会うのって、何年ぶりかな」
「最後に会ったのは、としまえんが閉園する前だった」
「そうだったね……」
二人の間に、記憶の糸が静かに結び直されていく。としまえんの遊園地、観覧車、流れるプール。すべてはもう過去のものになったけれど、そこに刻まれた感情は、まだ胸の奥でくすぶっていた。
「今日はね、伝えたいことがあったの」
「……俺も、同じ気持ちだ」
理紗は小さく頷き、少しだけ間を置いてから続けた。
「私たち、ずっと“何か”を避けてきたと思う。感情を整理することも、ちゃんと向き合って話すことも、全部。あなたが合理的に考える人だから、私もそこに甘えて、いつの間にか自分の気持ちを見ないふりしてた」
「……それは、俺の責任でもある」
「違うよ。あなたがそういう人だったからこそ、私は安心していられた。でもね……」
理紗は手袋を外して、素手でベンチを撫でるように触れた。その仕草には、どこか“終わり”の気配が滲んでいた。
「やっぱり、“静かな声で話す”だけじゃ、伝わらないものもあるって気づいたの」
心は目を伏せたまま、ゆっくりと言葉を返した。
「……俺も、ちゃんと話すべきだったと思ってる。何度も機会はあったのに、言葉にすることを怖がってた」
「それでも、こうして話せてよかった。今日、この“別れの言葉”をちゃんと交わせて、私は救われた気がする」
「……別れ、か」
「うん。あなたといた時間を否定するわけじゃない。ただ、このまま“中立的”な関係でいるのは、私たちにはきっともう無理だよね」
心は静かに息を吐いた。理紗の言葉は、一つひとつが正確で、痛みを伴いながらも優しかった。
「俺は……この関係を終わらせる勇気がなかった。たぶん、お前がそばにいることで、自分が許されてる気がしてたから」
「許すとか許さないじゃないよ。私は、あなたがどんなときでも“物事に着実に取り組む姿”を尊敬してた。でも、今の私は、もっと感情に向き合える人と未来を作りたい」
心はうなずいた。その言葉を、ただ静かに受け入れた。
「ありがとう、理紗。こうして、ちゃんと終われて良かった」
「うん。私も」
ふたりは立ち上がり、最後に池の方を見た。水面に映るのは、すっかり冬になった木々と、別々の方向へ歩き出そうとする二人の姿だった。
「じゃあね」
「じゃあな」
交わされた最後の言葉は、どこまでも静かで、そして優しかった。
——別れの言葉。
それは、後悔ではなく、確かな記憶として胸に残り続ける、ふたりが選んだ静かな旅立ちだった。
(第八十九章 完)