第八十七章「君が教えてくれた強さ」
荒川区・谷中銀座。午後の柔らかい陽射しが、下町の商店街の風情をやさしく照らしていた。コロッケ屋の揚げる音、猫が軒先を歩く足音、子どもが走る声。それらが重なって、街全体がゆっくりとした時間を刻んでいる。拓未は、そんな商店街を歩きながら、自分の足取りの確かさを改めて感じていた。
助けを求めるのが苦手。それが、彼の人生における“壁”だった。何でも一貫して進め、計画を立て、結果を出す。そうして生きてきたからこそ、誰かに「手伝って」と言うのがとても難しかった。心のどこかで、「それを言った瞬間に、自分の価値が下がるんじゃないか」とさえ思っていた。
けれど、そんな彼の中にある“強さ”の定義を変えてくれたのが、和奏だった。
今日はペットショップの奥にある、動物とのふれあいスペースで待ち合わせをしていた。彼女が提案してきたこの場所は、日頃の喧騒を離れて素直な気持ちになれる、まさに“心がほぐれる場所”だった。
店の前に着くと、ガラス越しに和奏の姿が見えた。彼女は小さな犬を膝に乗せ、優しく撫でていた。どこか仕事のときとは違う、柔らかい表情。そんな彼女を見ていると、心の奥に温かいものが流れ込んでくる。
「……来たよ」
「うん、見えてたよ。ちょっと顔こわばってたね」
「やっぱりバレるか」
「そりゃね。何年一緒にいると思ってるの」
ふたりは自然と並び、床に座って犬と猫たちに囲まれた。拓未は犬に手を差し出しながら、ちらりと和奏の顔を見た。
「こういうとこ、落ち着くな」
「うん、動物っていいよね。言葉で何も言わないけど、全部伝わってくる感じがする」
「……そうだな」
和奏はふと、拓未の手の甲に自分の指を軽く添えた。
「今日、私もちょっと話したいことがあるの」
「俺も。たぶん……同じかもしれない」
ふたりはしばらく、目を合わせたまま何も言わなかった。言葉にしなくてもわかることと、言葉にしなければ伝わらないこと。その両方が、今日のこの時間には流れていた。
「拓未くん、私ね、自分では大胆なつもりはなかったんだけど……」
「うん」
「でも、あなたと一緒にいるときだけは、少しだけ自分を強く感じるんだ。たぶんそれって、あなたが“自分の弱さ”もちゃんと見せてくれるからだと思う」
拓未は目を伏せた。
「弱さを見せるのが怖かった。仕事も、友達も、家族も……全部“ちゃんとできる”と思われたままでいたかった」
「それでも、私には見せてくれた」
「お前だけだったからな。見せてもいいって思えたのは」
和奏は微笑み、ポケットから一枚のカードを取り出した。そこには、彼女の小さな字でこう書かれていた。
あなたの背中を見て、私はたくさんのことを学んできました。
でも、私が一番感謝してるのは、あなたが“弱いところ”を見せてくれたこと。
それが、私にとっての“本当の強さ”だと教えてくれたから。
拓未はカードを受け取り、しばらくじっと見つめたあと、そっと胸元にしまった。
「……ありがとう」
「ねぇ、拓未くん」
「ん?」
「これから、もっと一緒に“弱くなれる時間”を作ろうよ」
「……それって、強くなれるってことか?」
「うん、そう思う」
ふたりは顔を見合わせ、ふわりと笑った。
ペットがふたりの間をくるくると駆け回り、小さな鳴き声が空間をあたためていく。外の世界では、すでに夕暮れが始まりかけていた。
「そういえば、次の休み、どこか行きたい場所ある?」
「うーん……そうだな。久しぶりに、遠出してもいいかも」
「それなら、星が見えるところがいいな。私、最近空を見上げること増えたから」
「お前らしいな」
「ふふ、そう?」
ふたりの笑い声が重なり、小さな室内に温かな響きが満ちていく。
——君が教えてくれた強さ。
それは、自分の“できなさ”を受け入れたときに芽生える、誰かと一緒に生きるための“本当の力”だった。
(第八十七章 完)