第八十四章「鏡越しの視線」
杉並区・高円寺駅南口のアーケード街は、日曜日の夕方にもなると人通りが落ち着き始める。雑貨屋や古着店のウィンドウから漏れる光が、石畳を柔らかく照らしていた。その中を、寛人はゆっくりと歩いていた。手には薄い紙袋。中身は、数日前から迷ってようやく買ったペアのキーホルダー。小さな鍵と鍵穴の形がそれぞれになっている。
「律奈、今日も来てくれるかな……」
ぽつりと漏れた声は、誰に聞かれることもなく、アーケードの天井に吸い込まれた。
寛人は、他人に頼るのが苦手だった。感謝や喜びを言葉にすることも少なく、いつも「ありがとう」や「ごめん」を心の中で繰り返すだけ。でも今日は、鏡の前で何度も練習してきた“その一言”を、きちんと伝えると決めていた。
向かった先は、井の頭恩賜公園の外れにある、あまり知られていない小さなベンチ。ふたりにとって“話せる場所”になっていた、静かな秘密のスポットだ。公園の中央では家族連れやカップルが賑やかに過ごしていたが、その場所は冬枯れの木々に囲まれていて、まるで時間だけが止まったようだった。
ベンチにはすでに、律奈が腰掛けていた。白いニットの袖が手の甲までかかり、少しうつむいた姿勢のまま本を読んでいた。彼女はふと顔を上げ、寛人に気づくと、少しだけ口角を上げた。
「……遅かったね」
「ごめん」
「……また謝ってる。別に怒ってないよ」
寛人は隣に座り、手にしていた紙袋をそっと膝の上に置いた。彼女の横顔を見ながら、どう言葉を切り出すかを迷っていると、律奈の方から先に口を開いた。
「ねぇ、寛人」
「ん?」
「今日は……いつもとちょっと違う?」
「そう、見える?」
「うん。鏡越しに自分を見つめるみたいに、今日はちゃんと自分の中を見ようとしてる目をしてる」
寛人はドキリとした。彼女の言葉は、いつも核心を突く。自分では曖昧にしてきたことや、蓋をしていた気持ちを、するりと引き出してしまう。
「実はさ……今日は、渡したいものがあって」
彼は震える手で紙袋から小さな箱を取り出し、律奈の膝の上にそっと置いた。
「これ……?」
「開けてみて」
彼女が箱を開けると、中には鍵と鍵穴の形をしたペアのキーホルダーが入っていた。シンプルなシルバーの造形が、冬の夕陽を反射して静かに輝いた。
「これ……」
「お前が“お互いに大切なものがあるなら、鍵で守ってあげたい”って言ってたの、覚えてる」
律奈は言葉を詰まらせながら、箱を閉じた。
「ありがとう。でも……どうして今?」
寛人は視線を逸らさずに、静かに語り始めた。
「俺、ずっと“誰かに頼ることは甘えだ”って思ってた。コツコツ努力して、期待に応え続けることでしか、自分の価値を示せないって……」
律奈は静かに頷きながら、彼の言葉に耳を傾けていた。
「でも、お前と話すようになってから、“頼られることも信頼の一つ”なんだってわかった。俺が誰かを頼っても、その人が俺を見捨てるとは限らないって、そう思えるようになった」
「寛人……」
「だから、今日渡した。これは、俺の気持ちの“鍵”でもある。お前がそれを持ってくれるなら、俺はもっと……自分を信じられる気がする」
律奈は、そっと箱を抱きしめるように胸元に引き寄せた。
「……ありがとう、寛人。すごく、嬉しい」
寛人は、ほっとしたように目を伏せた。そして少し間を置いてから、そっと呟いた。
「今日、初めて言うよ」
「え?」
「……ありがとう。律奈」
律奈の目に、ほんの少し涙が滲んだ。それでも彼女はしっかりと頷き、彼の手を取った。
「こっちこそ、ありがとう。寛人」
空は茜色から紺色へと変わりはじめていた。池の水面に反射する夕陽が揺れ、二人の姿を淡く映し出す。鏡のように、そこにあったのは過去の自分ではなく、“今”を見つめている二人だった。
——鏡越しの視線。
それは、過去の不器用さと向き合いながらも、未来に目を向けた者たちが交わした、最も素直な贈り物だった。
(第八十四章 完)