第八十三章「夢の中で逢いたい」
中野ブロードウェイの中は、いつもと変わらず独特な熱気に満ちていた。アニメや漫画、古着に模型、あらゆるサブカルチャーが集うこの迷宮のような空間の中で、龍馬はひときわ静かな空気を纏って歩いていた。鮮やかなポップの色彩と混ざり合う人波の中でも、彼は周囲に流されることなく、淡々と歩を進める。その手には、一輪の小さな花が握られていた。
「なんでこんなとこで待ち合わせなんだろうな」
彼は自分に向けて呟くと、ビルを出て哲学堂公園へ向かって歩き出した。ここは、かつて歩と初めて出会った場所。春の終わり、まだ肌寒さの残る季節。ひとりでベンチに座っていた彼の隣に、何も言わずに腰かけてきたのが歩だった。
それ以来、ふたりは互いに自然と寄り添うようになった。言葉は多くなかったが、不思議と心の距離は近かった。今日は、そんなふたりにとって少し特別な日だった。何かの記念日ではない。ただ、龍馬がどうしても“夢”について語りたくなった日だった。
哲学堂公園の入り口に着くと、歩がすでにベンチに座っていた。静かに本を開き、ページをめくるその手元は、やはり変わらず落ち着いていた。
「また“今来たとこ”って言うの?」
顔を上げずにそう問いかけられて、龍馬は少し笑った。
「バレてんのかよ」
「そりゃね。何年付き合ってると思ってるの」
彼女は本を閉じ、ゆっくりと彼に向き直った。どこか無表情に見えるその目には、しかし奥深くに温かな灯が宿っていた。
「今日、来てくれてありがとう」
「むしろ、来てくれてありがとうって言いたいのはこっちだよ」
龍馬はそう言いながら、手に持っていた一輪の花を差し出した。歩は少し驚いたような顔をして、そっと受け取る。
「これ……なんで?」
「なんとなく。今日、渡したい気分だった。特別な意味はないけどさ、でも、ちょっとだけ“夢”の中で渡してるイメージだったんだ」
「夢の中で?」
「うん。最近、よく夢を見るんだ。お前と一緒にいる夢。何でもない日常だけど、起きたときに、“あ、これって願いだったんだな”って思う」
歩は花を見つめながら、小さく微笑んだ。
「私も。夢って、不思議だよね。目が覚めても、そこにいた気持ちだけは残ってるから」
「だから、今日みたいな日があると、“夢が現実になった”って思えてさ、嬉しくなるんだ」
「……それ、言葉にするの、難しかったでしょ?」
「めちゃくちゃ難しかった」
歩はくすっと笑った。彼女の笑い方は昔から変わらない。ミーハーな話題も好きで、街角のカフェでスイーツを並べて写真を撮ることもある。でも、根本はとても真面目で、目標を見失うことなく、一貫した努力を積み重ねてきた。
「ねぇ、龍馬」
「ん?」
「私たち、少しずつだけど、ずっと進んできたよね。お互いに足りないところもあるし、完璧じゃない。でもさ、夢を語れるようになったのって、すごくない?」
「うん。昔の俺だったら、夢なんて言葉、馬鹿にしてたかもしれない。現実がすべてって思ってた。でも、お前といるうちに、“現実の中で見る夢”ってものを信じたくなった」
歩は、まっすぐに龍馬の目を見た。
「じゃあ、その夢の中で、私は何してる?」
龍馬は、ちょっとだけ考えて、こう答えた。
「……俺の隣で笑ってる。何でもない日常の中で、くだらない話して、たまに喧嘩して。でも、毎朝起きたとき、夢でも現実でも、お前がいることを喜べるような、そんな毎日を一緒に過ごしてる」
風が吹き抜けた。歩は、手の中の花を強く握った。
「夢の中で逢いたいって思ってたけど……今は、現実の中であなたに会えてよかったって思ってるよ」
龍馬は何も言わず、彼女の手を取り、優しく握り返した。
「夢でも、現実でも、何度でも会いに行くよ」
——夢の中で逢いたい。
それは、願いが言葉になり、現実に息づき始めた瞬間。ふたりにとって、“これから”がはじまる合図だった。
(第八十三章 完)