第八十二章「夜明けに向かう願い」
渋谷スクランブル交差点の夜は、いつだって目が眩むほどの光に満ちていた。巨大なビジョンが絶え間なく色彩を放ち、人々がせわしなく行き交う雑踏のなかに、大也は立っていた。交差点の真ん中で立ち止まるわけでもなく、かといって目的地へと急ぐでもなく、ただ歩きながら、自分の内側に静かに耳を傾けていた。
彼は人に注目されるのが好きだった。目立ちたがりというほどではないが、存在感のある自分でいたい、そう強く願ってきた。それが自信になることもあれば、時に孤独を深めることにも繋がった。
「やっぱり、ここにいたんだね」
聞き覚えのある声が背後から届き、大也は振り返った。蒼生が、歩道橋の下から姿を現した。長い髪が風になびき、彼女の鋭くもどこか寂しげな目が、夜の光にきらめいていた。
「……探してた?」
「うん、なんとなく。今日の大也くんなら、きっとここに来ると思った」
「そういうの、わかるんだ?」
「わかるよ。あなた、創意工夫するのは得意だけど、感情の置き場所にはいつも困ってるでしょ」
大也は苦笑した。図星だった。彼は頭の中で完璧なプランを立て、誰よりも効率的に物事を進めることができるのに、心の処理だけはいつまで経っても上手にならなかった。
「お前って、たまに怖いよな。全部見透かされてるみたいで」
「怖くないよ。むしろ、見えてるから安心するの。私も、自分のことをよくわかってもらえるのは嬉しいから」
蒼生は彼の隣に並んで歩き出した。喧騒を背に、代々木公園方面へ向かう細道に入ると、空気が少し静かになった。夜の公園は、人の気配が少なく、都会にありながら時間が止まったような感覚に包まれる。
「今日はさ、どうしてもお前に話したいことがあったんだ」
「……うん。私も」
大也は一瞬だけ立ち止まり、夜の空を仰いだ。東京の空には星がほとんど見えなかったけれど、それでも彼の心には確かな光が浮かんでいた。
「俺さ、自分の感情を冷静に整理するのが得意だと思ってた。でも違った。整理してるんじゃなくて、ただ隠してただけだった」
「……うん」
「自分を目立たせたいとか、注目されたいって気持ちは、たしかにある。だけど、その裏にある本当の願いは、たったひとつだった」
蒼生は横目で彼を見つめた。大也の声は、いつになく静かで、でもしっかりと芯が通っていた。
「誰かひとりに、ちゃんと自分を見ててほしい。そんな当たり前の願いに、今さら気づいた」
蒼生は小さく息を吐き、ベンチの背に手を置いた。
「私も、そうだったよ。自分を理解されたいって気持ちは強かったけど、それと同じくらい、自分を守ることばかり考えてた」
「お前、自己評価はちゃんとできるのにな。なのに、野蛮なくらい強がるとこある」
「あなたこそ、情熱を持ってるのに、なぜかそれを“目的”よりも“目立つこと”に使おうとする」
ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑った。少し皮肉混じりで、でもどこか愛おしい空気が流れた。
「なぁ、蒼生。お前がいてくれてよかった」
「……私も。あなたが、私のことをちゃんと見てくれて、本当に救われた」
「俺たち、不器用なとこばっかだけどさ、それでも……」
「夜明けに向かって歩くことはできるよ」
その言葉に、大也はふっと微笑んだ。
「……夜明けか」
「うん。私たち、ずっと夜の中にいた気がする。でも、それも今日で終わりにしたい」
代々木公園の林の向こうに、かすかに東の空が明るくなり始めていた。時刻は午前五時近く。大也はポケットから小さな紙袋を取り出した。
「これ、受け取ってくれる?」
蒼生が中を覗くと、そこには手作りの小さなブレスレットが入っていた。シンプルで、目立たないけれど、確かに彼の想いが込められていることがわかる。
「これ……私に?」
「俺なりの“願い”の形。お前と、夜明けまで一緒にいたいって思った」
蒼生はその言葉を、ゆっくりと胸に抱いた。空が少しずつ明るくなり、冷たい空気の中に新しい光が射し込んでくる。
「ありがとう、大也」
「お前がいてくれたから、俺は変われた」
ふたりは並んで立ち、静かに昇る朝日を見つめた。
——夜明けに向かう願い。
それは、今までの自分を越えて、新しい未来を信じる勇気をくれた、ふたりの最初の約束だった。
(第八十二章 完)