第八十一章「遠い日の優しい記憶」
世田谷区、日曜日の午後。二子玉川公園の芝生は冬の乾いた陽射しに照らされて、どこか金色に輝いて見えた。子どもたちの笑い声が遠くに聞こえ、大人たちはベンチで談笑し、読書する人もいれば、じっと空を見つめて物思いにふける人もいる。
その一角で、迅はひとりベンチに座り、膝の上にカメラを置いていた。まだレンズキャップを外すこともなく、彼は何も撮らないまま、ただ公園の景色を眺めている。いつもなら、風に揺れる木々や、無邪気に笑う子どもたちの表情を逃さずレンズに収めていた彼が、今日に限っては手が止まっていた。
「待った?」
声がして、彼は顔を上げた。光佳が、白いマフラーを巻いて手を振っていた。少し駆け足で近づいてきて、息を弾ませている。
「……ううん、俺も今来たところだよ」
「毎回それ言うけど、絶対先に来てるでしょ?」
「まぁね」
光佳は座ると、カバンから水筒を取り出して彼に差し出した。
「はい、ホットココア。こういう日は甘いのがいいよ」
「ありがとう」
ふたりはココアを飲みながら、しばし無言で目の前の景色を眺めた。風が少し強くなり、木の葉がざわざわと音を立てた。光佳の髪がふわりと風に舞い、迅はその横顔を見つめた。
「……どうしたの?」
光佳が彼の視線に気づき、首を傾げた。
「いや、ただ。なんか、お前って本当に“ゲラ”だなって思って」
「なにそれ!」
「いや、ちょっと笑っただけで周りが明るくなるっていうか。子どもみたいに素直に笑うじゃん」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。だから、その笑顔が見たいから、今日もここに来たんだと思う」
光佳は頬を赤らめながら、視線を逸らした。
「……それなら、ちゃんと撮ってよ。カメラ、今日一度も触ってないでしょ?」
「……そうなんだよな」
「撮らないの?」
「うん、なんか、今日はシャッター切るのがもったいなく感じてさ。今この瞬間を、ただ心で見ていたいって思ったんだ」
光佳は目を細めて、彼の言葉を静かに反芻した。
「それって、ちょっとロマンチックだね」
「……俺、そんなキャラじゃないだろ?」
「うん、だからちょっと驚いた」
ふたりはふっと笑い合った。そこには気負いも遠慮もない、まるで長年の友人のような、けれど確かに心が近づいている気配があった。
「実はね、ここ……小さい頃に家族と来たことあるの」
「そうなんだ?」
「うん。そのときの記憶って、ほとんどないんだけど、不思議と景色だけは覚えてるの。あのベンチに父が座ってて、母が芝生にレジャーシート敷いてて……私は走り回って、転んで泣いてた」
「……想像できるな」
「でしょ? でね、父が膝の上に乗せて、“泣くとこ、ちゃんと見てるよ”って言ってくれたの。それだけは、ずっと心に残ってる」
迅はカメラをそっと持ち上げ、光佳の顔にレンズを向けた。
「今の話、写真に残したくなった」
「え、やだ。泣いちゃうかも」
「それでもいい。俺にとって、そういう表情が一番撮りたい瞬間なんだ」
光佳はためらいながらも、視線をカメラの先に向けた。そして、ふわりと笑った。どこか懐かしさを含んだ、まるで「遠い日の優しい記憶」を今に映し出すような笑顔だった。
シャッター音が静かに響く。
「……今の、保存してくれた?」
「もちろん。今日一番の一枚」
風がまた吹いて、木々が優しく揺れた。川の向こう側では、犬を連れた老夫婦がゆっくりと歩いている。
「迅くん、私ね、実はずっと誰かにこうやって見ててもらいたかったの。喜ぶ顔も、泣く顔も、全部」
「俺も。ずっと、誰かと一緒に記憶を重ねたかった」
ふたりはそっと手を重ねた。その瞬間、世界が少しだけ優しくなった気がした。
——遠い日の優しい記憶。
それは、過去を包み込むだけでなく、いまここにあるぬくもりを未来へと連れていく、小さな光だった。
(第八十一章 完)