第八十章「静かな湖面に映る心」
大田区、午後四時。羽田空港から離れた住宅街の奥、池上本門寺の裏手にある静かな池のほとりに、友也はひとり立っていた。冬の日差しがやわらかく湖面を照らし、風もなく、水面はまるで鏡のように静かだった。空の青、寺の屋根、そしてぽつんと立つ自分の姿が、ぼんやりと映し出されている。
「……こんなに静かだとは思わなかったな」
彼はぼそりと呟き、ベンチに腰を下ろした。ポケットの中には、手書きの手紙が一枚。何度も書き直し、ようやく今朝完成させたものだ。読ませるつもりなのか、渡すつもりなのか、まだ自分でも決めかねていた。
そんなときだった。
「友也くん、待った?」
彼の耳に聞き慣れた声が届いた。美鈴が、小走りで池のほとりにやってくる。コートの裾を押さえながら息を整え、頬を赤らめていた。
「いや、俺も今来たところだ」
「またそれ?」
美鈴はくすっと笑い、彼の隣に座った。ふたりの間には、ほんの少しの距離があったが、それがかえって心地よい空間を生み出していた。
「この場所、初めて来たかも」
「静かだろ?観光客もほとんど来ないし、隠れスポットってやつかな」
「……まるで湖面が心の中を映してるみたい」
「俺も、そう思った」
美鈴は指先で水面を指しながら、ぽつりと続けた。
「最近、いろんなことが重なって、自分の気持ちがよくわからなくなるの。だから、こういう静かな場所に来ると、少しホッとする」
「わかるよ」
「友也くんも?」
「……俺、卑怯なとこあるからさ。誰かに頼るのが怖くて、助けられるくらいなら、一人で我慢したほうが楽だって思っちゃう」
「でも、今日は来てくれた」
「お前が、俺の“助けて”を見抜いたからな」
美鈴は目を丸くして、ふふっと笑った。
「確かに。顔に出てた」
「マジか……隠してたつもりだったんだけどな」
「無理だよ、そんなの。私、そういうのだけはよくわかるんだから」
少し照れくさそうにうつむいた彼の手に、美鈴がそっと自分の手を重ねた。その瞬間、彼の肩が小さく揺れた。
「ねぇ、私、ちょっと言いたいことがあるの」
「……うん」
「前にね、友也くんが“他人の助けを素直に受け入れるのが苦手”って言ってたでしょ?」
「ああ」
「私ね、それを聞いたとき、自分もそうだったなって思ったの」
「え?」
「私も、昔は誰かに頼るのが苦手だった。強くあらなきゃって、ずっと思ってた。けど……無理に強がっても、ほんとは心の中で泣いてるって気づいた時があったの」
友也は、美鈴の横顔をじっと見つめた。彼女の言葉は、静かな湖面のように、彼の中にすうっと染み込んでいった。
「……それで、どうしたの?」
「泣いてもいい相手がいたら、少しずつ楽になった。笑顔で強がるんじゃなくて、ちゃんと弱音を吐ける場所があるって、大事なことなんだなって思った」
友也はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……お前がその場所になってくれるなら、俺、少しだけ頼ってもいいかな」
「もちろんだよ」
美鈴はにっこりと微笑んだ。その笑顔は、冬の光よりもあたたかく、彼の凍っていた心をそっと包み込んだ。
「ねぇ、これ、渡してもいいか?」
そう言って友也は、ポケットから例の手紙を取り出した。
「なにこれ?」
「……読んでみて」
美鈴はそっと手紙を受け取り、封を開けた。そして、丁寧に折りたたまれた便箋を広げ、目を通し始めた。
美鈴へ
俺はずっと、誰かと真剣に向き合うのが怖かった。
自分の弱さを見せるのが恥ずかしくて、強がってばかりいた。
でも、お前は違った。どんなときも真正面から俺を見てくれて、
それでいて、俺が黙ってるときは黙ってそばにいてくれた。
そんなお前に出会って、俺は少しずつ変わった。
ありがとう。これから先、どんなに不器用でも、
俺はお前のとなりで、ちゃんと歩いていきたいと思ってる。
友也
読み終えた美鈴は、しばらく言葉を発することができなかった。そして、手紙を胸に抱え、涙をこぼしながら笑った。
「……ずるいよ、こんなの」
「そうか?」
「うん。でも……すごく嬉しかった」
「なら、よかった」
ふたりは再び黙って、静かな湖面を見つめた。冬の夕陽が水面に映り、その輝きはまるで、ふたりの心が重なった証のように美しく広がっていた。
——静かな湖面に映る心。
それは、他人に頼ることの意味を知り、素直な想いを確かに交わせた、穏やかで強い絆の瞬間だった。
(第八十章 完)