第八章「すれ違う背中」
北見の冬は、澄んだ冷たい空気が街を包み込んでいた。オホーツク流氷館の前に立ち、翔大は手をポケットに突っ込んだまま、吐く息の白さをぼんやりと見つめていた。
「……遅いな」
携帯を取り出して時間を確認すると、待ち合わせの時間をすでに十分過ぎている。
「玲子のやつ、また遅刻か」
そう呟いた瞬間、背後から小さな足音が近づいてくる。
「ごめん、翔大!遅くなった!」
振り向くと、息を切らしながら玲子が駆け寄ってくる。
「ほらな、やっぱり遅刻だ」
「いや、ちょっと準備してたら時間かかっちゃって……」
玲子は肩で息をしながら、申し訳なさそうに笑う。
「まぁ、いいけどな」
翔大は小さくため息をつきながら、流氷館の入り口へと歩き出した。
オホーツク流氷館
館内に入ると、冷たい空気が肌を刺す。流氷体験コーナーでは、氷点下の空間に漂う本物の流氷が展示されていた。
「うわぁ……すごいね」
玲子が感嘆の声を漏らす。
「ここまで冷えると、空気の感じが違うな」
翔大は手を伸ばして氷に触れてみた。指先がジンと冷たくなる。
「こんなに寒いところで生活する動物たち、すごいよね」
玲子は展示されているアザラシの映像を眺めながら、真剣な顔をしていた。
「お前、こういうの好きだったっけ?」
「うん、なんかね、壮大な自然の中で生きてる動物たちを見てると、ちっぽけな悩みがどうでもよくなる気がするんだよね」
翔大は玲子の横顔を見た。普段はどこか冷静で、合理的なことを優先する彼女が、こんなふうに感情を素直に表に出すのは珍しい。
「玲子、たまにはそういうこと考えるんだな」
「たまにはって、ひどくない?」
「いや、いつも冷静なイメージがあるからさ」
「そりゃ、ちゃんと考えてるよ」
玲子は少しムッとした顔をしながらも、すぐにフッと笑った。
「でも、翔大も、たまにはこういう場所に来るのも悪くないでしょ?」
「まぁな。こうして来てみると、それなりに楽しめる」
玲子は満足そうに頷いた。
流氷の下の世界
館内を歩きながら、二人は流氷の下の世界を映した映像展示に立ち止まった。そこには、氷の下を悠々と泳ぐクリオネの姿が映し出されていた。
「……綺麗」
玲子が小さく呟いた。
「お前、クリオネ好きだったっけ?」
「うん。だって、すごく儚い存在じゃない?」
玲子は映像の中で優雅に泳ぐクリオネをじっと見つめていた。
「流氷とともに生きて、流氷とともに消えていく……そんな生き方、なんか切なくて、でも美しいと思うんだよね」
翔大は玲子の言葉に、なんとなく共感するような気持ちになった。
「……すれ違う背中みたいだな」
「え?」
「何かを追いかけていても、気づけばすれ違ってる。そんな感じがする」
玲子はしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑んだ。
「翔大、たまに詩人みたいなこと言うよね」
「そんなつもりはないけどな」
「でも、分かるよ。その感じ」
二人は映像を見つめながら、しばらく黙っていた。
外に出ると、雪
流氷館を出ると、外は雪が降り始めていた。
「寒いね」
玲子がコートの襟を立てながら言う。
「まぁ、冬だからな」
「それにしても、今日はいい時間だったね」
「そうだな」
玲子はポケットから手袋を取り出し、ゆっくりと手にはめる。
「ねぇ、また来ようね、こういう場所」
「……ああ」
翔大は小さく頷いた。
——すれ違う背中。
それでも、またこうして並んで歩くことができるのなら、それでいいのかもしれない。
(第八章 完)