表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
79/205

第七十九章「二人の秘密の場所」

 目黒川沿いに並ぶ木々は、すでに葉を落とし、冬の冷たい空気に枝を震わせていた。川面はどこまでも静かで、わずかな風が通るたびに水面を揺らす。夕暮れが迫る空の下、暁は目黒川の橋のたもとに立っていた。

 彼の背筋はまっすぐ伸び、両手をコートのポケットに入れている。落ち着いて見えるその表情の奥には、静かな緊張が潜んでいた。川沿いを行き交う人々の姿を見送りながら、暁は一つ大きく息を吐いた。

「……本当に、ここでよかったのかな」

 そんな独り言を呟くと、彼の耳に軽やかな足音が届いた。

「待たせた?」

 えりが微笑みながら近づいてくる。白いマフラーを巻き、薄化粧の頬は冬の風で赤く染まっている。

「……いや、俺も今来たところだ」

「ふふ、絶対嘘だと思ってた」

 えりは自然に隣に立ち、同じように川を見下ろした。目黒川の水面には、夕暮れの光がゆらゆらと反射し、まるで波間に想いが溶けていくようだった。

「覚えてる?ここ」

「忘れるわけないだろ。初めて会った場所だ」

「うん。あの時は……桜が満開だったね」

「ああ、花見客で溢れかえってて、お前が迷子の子どもを探してた」

「そして、それを無言で助けてくれた男の人がいた」

「それが俺だったわけだ」

 ふたりは思い出すように、顔を見合わせて笑った。

「不思議だったな」とえり。「あなた、最初はすごく無愛想に見えたのに、助けてくれる手は誰よりも優しかった」

「無愛想、な……。まぁ、人見知りだから」

「嘘つけ。今日だって、しっかり時間前に来てたくせに」

 暁はわざとらしく咳払いしながら視線を逸らした。

「でもね、暁。今日、ここに来たのは偶然じゃないよ」

「……わかってる」

 えりはマフラーをぎゅっと握り、深く呼吸をした。

「この場所、私にとって特別なんだ。いつもは強がってばかりの私だけど、ここに来ると素直になれるの」

「お前、強がりってより、“革新的”なんだよ。自分のやりたいことを見つけて、どんどん進んでく」

「……そう思う?」

「思うさ。俺なんか、課題ひとつに何日も悩むような奴だけど、お前は一歩を踏み出す力がある」

 えりは一瞬だけ照れたように笑ったあと、真剣な目を暁に向けた。

「私ね、実はこの間まで、ちょっと迷ってた」

「何を?」

「この関係を、どうしたらいいのかなって。好きだって気持ちはあるのに、それをどう言葉にすればいいのか、ずっとわからなかった」

 暁はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。

「俺も同じだったよ」

 えりの目が少し見開かれた。

「本当?」

「ああ。お前って、水くさいところあるからさ。全部自分で抱えて、俺には強いとこばかり見せてくる」

「……そうかもね」

「でもな、今日ここに来たのは、“二人の秘密の場所”を、ちゃんと“ふたりの居場所”に変えたかったからなんだ」

 えりはその言葉を聞きながら、ゆっくりと暁に近づいた。そして、ふたりの距離は、もはや言葉を交わさなくても気持ちが伝わるほどになっていた。

「秘密って、守るだけのものじゃないと思うの。誰かと共有して初めて、意味を持つんだと思う」

「俺もそう思う。お前とだったら、どんな秘密でも大切にできる」

 えりは小さく頷きながら、ポケットから小さな手帳を取り出した。その中に挟まれていた一枚の紙切れを取り出し、暁に差し出す。

「これ、読んで」

 暁がそれを受け取り、目を通すと、そこにはこう書かれていた。


 二人の秘密の場所に、今日、もう一つの想い出を刻みます。

  この先も、変わらず笑い合えますように。


 暁は読み終えると、静かに顔を上げて、えりに向かって言った。

「これ、宝物にするよ」

「よかった。私も、ずっと持っていたかったけど、あなたの手にある方が似合う気がする」

 太陽が沈み、川面の光がゆっくりと消えていく。ふたりはしばらく言葉もなく、ただその場に立ち尽くしていた。風が少しだけ強くなったが、不思議と寒さは感じなかった。

「ねぇ、暁」

「ん?」

「この先、私たちが喧嘩したり、すれ違ったりしても……この場所に来たら、また始められるって思えるような、そんな場所にしたい」

「そうしよう。ここを、俺たちの“スタート地点”にしよう」

 えりは、ほんの少しだけ涙ぐんだ目で笑った。

「ありがとう、暁」

「お前こそ、ありがとう」

 ——二人の秘密の場所。

 それは、想いを重ねるたびに、ただの“記憶”から“未来への約束”へと変わっていく、ふたりだけの原点だった。

(第七十九章 完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ