第七十九章「二人の秘密の場所」
目黒川沿いに並ぶ木々は、すでに葉を落とし、冬の冷たい空気に枝を震わせていた。川面はどこまでも静かで、わずかな風が通るたびに水面を揺らす。夕暮れが迫る空の下、暁は目黒川の橋のたもとに立っていた。
彼の背筋はまっすぐ伸び、両手をコートのポケットに入れている。落ち着いて見えるその表情の奥には、静かな緊張が潜んでいた。川沿いを行き交う人々の姿を見送りながら、暁は一つ大きく息を吐いた。
「……本当に、ここでよかったのかな」
そんな独り言を呟くと、彼の耳に軽やかな足音が届いた。
「待たせた?」
えりが微笑みながら近づいてくる。白いマフラーを巻き、薄化粧の頬は冬の風で赤く染まっている。
「……いや、俺も今来たところだ」
「ふふ、絶対嘘だと思ってた」
えりは自然に隣に立ち、同じように川を見下ろした。目黒川の水面には、夕暮れの光がゆらゆらと反射し、まるで波間に想いが溶けていくようだった。
「覚えてる?ここ」
「忘れるわけないだろ。初めて会った場所だ」
「うん。あの時は……桜が満開だったね」
「ああ、花見客で溢れかえってて、お前が迷子の子どもを探してた」
「そして、それを無言で助けてくれた男の人がいた」
「それが俺だったわけだ」
ふたりは思い出すように、顔を見合わせて笑った。
「不思議だったな」とえり。「あなた、最初はすごく無愛想に見えたのに、助けてくれる手は誰よりも優しかった」
「無愛想、な……。まぁ、人見知りだから」
「嘘つけ。今日だって、しっかり時間前に来てたくせに」
暁はわざとらしく咳払いしながら視線を逸らした。
「でもね、暁。今日、ここに来たのは偶然じゃないよ」
「……わかってる」
えりはマフラーをぎゅっと握り、深く呼吸をした。
「この場所、私にとって特別なんだ。いつもは強がってばかりの私だけど、ここに来ると素直になれるの」
「お前、強がりってより、“革新的”なんだよ。自分のやりたいことを見つけて、どんどん進んでく」
「……そう思う?」
「思うさ。俺なんか、課題ひとつに何日も悩むような奴だけど、お前は一歩を踏み出す力がある」
えりは一瞬だけ照れたように笑ったあと、真剣な目を暁に向けた。
「私ね、実はこの間まで、ちょっと迷ってた」
「何を?」
「この関係を、どうしたらいいのかなって。好きだって気持ちはあるのに、それをどう言葉にすればいいのか、ずっとわからなかった」
暁はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「俺も同じだったよ」
えりの目が少し見開かれた。
「本当?」
「ああ。お前って、水くさいところあるからさ。全部自分で抱えて、俺には強いとこばかり見せてくる」
「……そうかもね」
「でもな、今日ここに来たのは、“二人の秘密の場所”を、ちゃんと“ふたりの居場所”に変えたかったからなんだ」
えりはその言葉を聞きながら、ゆっくりと暁に近づいた。そして、ふたりの距離は、もはや言葉を交わさなくても気持ちが伝わるほどになっていた。
「秘密って、守るだけのものじゃないと思うの。誰かと共有して初めて、意味を持つんだと思う」
「俺もそう思う。お前とだったら、どんな秘密でも大切にできる」
えりは小さく頷きながら、ポケットから小さな手帳を取り出した。その中に挟まれていた一枚の紙切れを取り出し、暁に差し出す。
「これ、読んで」
暁がそれを受け取り、目を通すと、そこにはこう書かれていた。
二人の秘密の場所に、今日、もう一つの想い出を刻みます。
この先も、変わらず笑い合えますように。
暁は読み終えると、静かに顔を上げて、えりに向かって言った。
「これ、宝物にするよ」
「よかった。私も、ずっと持っていたかったけど、あなたの手にある方が似合う気がする」
太陽が沈み、川面の光がゆっくりと消えていく。ふたりはしばらく言葉もなく、ただその場に立ち尽くしていた。風が少しだけ強くなったが、不思議と寒さは感じなかった。
「ねぇ、暁」
「ん?」
「この先、私たちが喧嘩したり、すれ違ったりしても……この場所に来たら、また始められるって思えるような、そんな場所にしたい」
「そうしよう。ここを、俺たちの“スタート地点”にしよう」
えりは、ほんの少しだけ涙ぐんだ目で笑った。
「ありがとう、暁」
「お前こそ、ありがとう」
——二人の秘密の場所。
それは、想いを重ねるたびに、ただの“記憶”から“未来への約束”へと変わっていく、ふたりだけの原点だった。
(第七十九章 完)